2016年4月9日土曜日

<社会派シネマ>の戦い方

シネマレッスン・シリーズ CineLesson9
<社会派シネマ>の戦い方(フィルムアート社)を読みました。

▢「<社会派シネマ>の戦い方」について
編     北小路隆志+水原文人+編集部
装幀    岩瀬 聡
編集部   津田広志+伊藤克則+森宗厚子
写真協力  山形国際ドキュメンタリー映画祭
      スタンス・カンンパニー
      アスミック・エース
      ブエナビスタ
      パンドラ
      映像文化協会
      土屋豊
      川喜多記念映画文化財団
      アップリンク
カバー写真 小川紳介『日本解放戦線・三里塚の夏』
見返し写真 テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』
著者    北小路隆志
      水原史人
      とちぎあきら
      村山匡一郎
      奥村賢
      平井玄
      瀬川裕司
      斉藤綾子
      木村建哉
      杉原賢彦
      鬼塚大輔
      森直人
      越智敏之
      酒井隆史
      小倉虫太郎
      石坂健治
      暮沢剛巳
      井上リサ
      西村安弘
      濱口幸一
      佐崎順昭
      江口浩


▢ 載っている映画・映画作家
[映画]
チチカット・フォーリーズ
俺たちに明日はない
ベトナムから遠く離れて
三里塚・第二砦の人々
ゴッドファーザーPARTⅡ
ナッシュビル
愛のコリーダ
ヒトラー
アレクサンダー大王
ショアー
ゆきゆきて、神軍
ドゥ・ザ・ライト・シング
ボブ・ロバーツ
新ドイツ零年
ナムヌの家
アンダーグラウンド
プライベート・ライアン
ブッグ・アメリカン
カジノ
メイン州ベルファスト
クレイドル・ウィル・ロック
新しい神様
初国知所之天皇
教えられなかった戦争・沖縄編
インテリア
JM
ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ
ブレア・ウィッチ・プロジェクト
七本のキャンドル
クンドゥン
ファイトクラブ
救命士
こわれゆく女
シャイニング
アントニア
愛を乞うひと
白い巨塔
ヒポクラテスたち
エレファント・マン
ブラック・ジャック
海と毒薬
野性の夜に
フィラデルフィア
パッチ・アダムス
隣人は静かに笑う
鬼教師ミセス・ティングル
スモール・ソルジャーズ
カラー・オブ・ハート
BULLET BALLET バレット・バレエ
カリスマ
8㎜
息づかい ほか

[作家]
フレデリック・ワイズマン
ロバート・クレイマー
アモス・ギタイ
ストローブ・ユレイ
フランシスコ・フォード・コッポラ
小川紳介
スティーヴン・スピルバーグ
オリヴァー・ストーン
イアン・ケルコフ
ジガ・ヴェルトフ集団
メドヴェトキン集団
ミシェル・クレイフィ
ティム・ロビンス
ドゥシャン・マカヴェイエフ
ニコラ・フィリベール
トリン・T・ミンハ
マチュー・カソヴィッツ
テリー・ギリアム
スパイク・リー
田荘荘
佐藤真
テオ・アンゲルプロス
バーバラ・ハマー
ライナー・W・ファスビンダー
ナンニ・モレッティ
クロード・シャブロル
黄建新
原一男
崔洋一
土本典昭
フィリップ・ガレル
リノ・ブロッカ
渡辺文樹
マイク・リー
マーティン・スコセッシ
ジョン・シュレシンジャー
ロバート・アルトマン
ドグマ95
ケン・ローチ
朴鐘元
アーネスト・ディッカーソン
熊井啓
チャールズ・チャップリン
キング・ヴィダー
マーヴィン・ルロイ
ウィリアム・ウェルマン
フランク・キャプラ
ジョン・M・スタール
ウィラム・ワイラー
ロベルト・ロッセリーニ
ヴィットリオ・デ・シーカ
エリア・カザン
ニコラス・レイ
スタンリー・クレイマー
ジョン・フランケンハイマー
今井 正
山本薩夫
家城巳代治
関川秀雄
亀井文夫 ほか


▷「<社会派シネマ>の戦い方」を読んで
社会派シネマとは果たして何なのか─。何となく漠然と理解できるようなできないような…。自分の中だけのイメージでいうと、ケン・ローチとかシドニー・ルメットが監督するような劇映画、あるいは反戦や社会の不正をテーマとして描いている劇映画、それと小川紳介や土本典昭といったドキュメンタリストが作る社会問題や公害などを取り扱ったドキュメンタリー映画等、社会の問題を見ている者に提起する作品がそれにあたるような気がする。
ある映画作品が現実の、特に現在の人間の生活を描く場合、背景となる社会の要素が入り込んでくるのは、そう珍しいことではない。つまりは、社会も描かれているわけだが、これだけでは社会派映画とは受け取られない。そのように呼ばれる作品は、社会そのもの、とりわけ社会の矛盾や問題に、見る者の目を向けさせるように作られている。言いかえれば、観客に社会を意識させることが、社会派映画を定義する上で最も重要な特徴となる。
本のなかで書かれている一節には、非常に納得させられる。単に事件や問題を描写するだけでなく、見ている者が問題意識を持つように仕向けられている作品こそが、社会派シネマといえるのだろう。
そうなると、この本の冒頭に登場する映画「チチカット・フォーリーズ」や、監督紹介で真っ先に登場するフレデリック・ワイズマンなどは、本当は社会派シネマとは言えないのかもしれない。
「4週間から11週間の時間をかけて撮影した80時間から110時間前後フィルムを編集した、76分から356分の間の長さで、社会の中にある組織・集団・人々について、私が見たこと、考えたことを描くもの」ワイズマンは自分の映画をこう定義している。
実際にワイズマンの映画を見て思うことは、必ずしも社会的な問題意識などではなく、あくまで我々が生きている社会の一面であり、考えるというよりもむしろ楽しむといったほうが正確だ。だから前出の社会派シネマの定義には当てはまらない気がするが、あの定義は謂わば古典的な映画において提示されているものであるわけで、現代においてはその定義もかなりの広がりを持っていると推測される。であるから、ワイズマンも、さらにはスピルバーグなども社会派シネマとして語られているのだろう。
21世紀に突入する映画を巡る環境はカオスだ。とにかく映画はその純粋な身体あるいは領土を維持する夢を捨てたほうがいい。たとえば評論家や研究者のなかに、ある種の作品を「これは映画ではない」と批判し、それで決定的な何かを口にした気になる人たちがいる。とんだ時代錯誤だ。
つまりは、社会派シネマという堅苦しいテーマだからといって堅苦しく映画を捉えてはならないということなのかもしれない。
映画は社会や現実の鏡ではないが、どんな映画でも社会や現実が直接的、間接的にその映画を取り巻く状況や社会に深く関わり─
どんな映画にも社会性というものは備わっていて、そう考えると、社会派シネマという分類は無意味なように思えてきてしまう。あくまで分類することが無意味ということであり、映画を社会と照らし合わせて考えることは必要不可欠で、すべての映画を社会派シネマとして捉えると、より深くその映画を咀嚼することが可能になる。
ハリウッド映画の象徴のように輝くあのスピルバーグ映画も、社会派映画だという認識でもう一度見直してみると、今までとはひと味違った見方ができる。その意識が有意義なもなかどうかは、また別な話ではあるけれど─
スピルバーグが<社会派>映画を撮るということは、ハリウッドが持つ啓蒙システムとしての側面に大きく加担するのと同義であり、本人に自覚があろうとなかろうと、その作品はアメリカ合衆国の信頼性を補強する道具に利用される。
スピルバーグがオスカーを手にしたのは「シンドラーのリスト」と「プライベート・ライアン」だという事実。それら大戦を扱った作品がアメリカ映画の象徴として世界に発信されている。「未知との遭遇」「E.T.」「インディ・ジョーンズ」いった作品よりも、オスカー受賞作のほうが優れているという印象を持たれることは必至。それがプロパガンダにつながっている見ることは飛躍しすぎだとは思うが、“本人に自覚があろうとなかろうと─”という部分をも勝手に、言わば斜め読みしていくことで、ひとつの映画の楽しみ方が大きく膨らむことは確かなことだ。
三島由紀夫にならって黒澤明の思想を中学生とするなら、スピルバーグは幼稚園児程度─
そういう行き過ぎた見方をすることは、常に娯楽大作を志向しているようなスピルバーグにはやや酷なように思うのだが、映画というものは様々な角度から鑑賞可能なのだということがよく分かる。
過度の斜め読みもまた重要なことで、とかくメディアリテラシーという観点から、独自の視点で自らを取り巻く状況や社会とを比較しながら映画と対峙すべきなのだろう。
カメラは必然的に被写体から何かを暴きたてる─
あらゆる映画がプロパガンダ映画である─
「ほんの視線一つが情熱を、殺人を、戦争を誘発する」─ 
カメラワークは視覚の拡張のあらわれであるが、それは視覚を拘束する自由をも含めたものだといえよう。─
映画は大衆を魅了し、大衆を煽動し、大衆を操る力を秘めている。映画の良さも悪さも映画自らがそれを隠しもせずに晒し続けてきているわけで、それをどういうものにするのかはあくまでも見ている側に委ねられている。
映画は夢であるとしても、それは現実逃避のための夢ではなく、「現実」を直視するための夢である(略)僕たちは現実が恐ろしくて夢に逃避するのではなく、夢が恐ろしくて現実に逃避ししているのだ。
夢が嫌で現実に戻ってくるぶんにはいいが、夢から覚めない大衆の中に自分がいることがないように─
「限りない教えと観察を集めること」
それを心がけて映画を見続けていこうと、心に誓う一冊であった。