2015年10月21日水曜日

伊藤計劃記録『映画評』

「伊藤計劃記録(著:伊藤計劃)」の『映画評』を読みました

▢「伊藤計劃記録」について
2010年3月20日印刷25日発行。
故人が残した短編小説や未完の「屍者の帝国」、散文やインタビュー、映画評などをまとめたもの。

▷ 伊藤計劃への思いから
故人と多少の面識があったものの、その死を知ったのは数年前の某夕刊紙面であった。計劃という名前は初見ではあったが、大きな笑顔で写っているその写真は間違いなく知っている顔であった。
知っていた人が知らないうちに有名になって知らないうちに旅立っていた─、その後、故人が知らないところで賞を取り知らないところでプロジェクトが進んでいる─、何か自分の中の現実世界において、伊藤計劃という部分だけが架空の出来事のように展開しているようだ。
故人を再発見し、すぐさま「虐殺器官」「ハーモニー」そしてこの「伊藤計劃記録」を手にした。長編2作は超SF、自分の趣味とは水と油のように思いつつも、その意識も読まず嫌いのようなもので、内容はなかなか楽しめた。映画もこれからだしワクワクドキドキがどんどん高まっている。
「伊藤計劃記録」の中には未完の「屍者の帝国」が載録されている。あまりにも短すぎる未完作とはいえ、公開されているアニメ映画のイメージというか世界観というものは提示しきっているように思えた。完成した映画を、果たして、伊藤計劃はどのように批評したことだろう。

▢『映画評』について
これは故・伊藤計劃が個人的に開設していたウェブサイト「SPOOKTALE」の「CINEMATRIX」というインデックスに投稿された映画批評を抜粋し、書籍として纏められたもの。それらは現在もウェブ上で確認可能だ。
キネマトリックス@スプークテール:インデックス
 映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。
 批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクタターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。
このように述べているとおり、観賞の有無に関係なく、その論じている文章が非常に面白い。勿論、すでに視聴済みであるならば、頷いたり反駁したりニンマリするだろう。あるいは未経験のものでも非常に興味をそそられ、それをもとにレンタル・購入・視聴等してみても損はない。著者の意図するところは、読者に映画へと誘うことであるわけだから、見たくなるのは至極当然なのだ。
掲載されている映画は31本。果たして何本経験しているか─
スターシップ・トゥルーパーズ(1998)
プライベート・ライアン(1998)
トゥルーマン・ショー(1998)
アルマゲドン(1998)
ガメラ3・邪神<イリス>覚醒(1999)
エネミー・オフ・アメリカ(1999)
ブレイド(1999)
アイズ ワイド シャット(1999)
マトリックス(1999)
金融腐蝕列島 呪縛(1999)
ワイルド・ワイルド・ウエスト(1999)
ファイト・クラブ(1999)
御法度 GOHATTO(1999)
シュリ(2000)
スリーピー・ホロウ(2000)
人狼・JIN-ROH(2000)
アイアン・ジャイアント(2000)
グラディエーター(2000)
インビジブル(2000)
ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000)
アヴァロン(2001)
回路(2001)
ザ・セル(2001)
ハンニバル(2001)
スパイ・ゲーム(2001)
マイノリティ・リポート(2002)
ボーン・アイデンティティー(2003)
ロード・オブ・ザ・リング〜二つの塔〜(2002)
リベリオン(2003)
ラスト サムライ(2003)
イノセンス(2004)
自分は10本見ていた。それらの批評を読むと、面白くて仕方がなかった。細かなところから、果ては別の映画・別の分野にまで知的な探求がなされており、完結した読み物として大いに堪能できた。
メジャーどころの映画ばかりなので、必ず1本は見ていると思う。故に、共感できるところは必ずあるはず。全部見たという強者は、映画関係者かマニアでしかあるまい。著者は間違いなく後者であり、底知れぬ映画愛を持っていたことを確認できる。

要するに、物語が面白いとか、登場人物の考え方に共感するとか、そういう類の映画では全くないということです。むしろ、ハラハラドキドキの物語が無くて、カメラワークと演技だけでハラハラドキドキ感を「捏造」する方が映画の醍醐味なのだ、ということを思い知らせてくれた映画なのでした。 
ぼくは「アルマゲドン」で「感動」した、という人にはこういうことにしています。「それは、君が世界に対して怠慢な証拠だよ」と。彼らは世界から「感動」を見つけ出す努力をしていない。だからとりあえずの涙を「感動」にすり替えて満足しているのだと。 
映画は娯楽である。2時間の間、それなりに面白いお話しを映像でつなげればそれでよろしい。きっちり予算内で、2時間という尺を埋めて、お客さまに見せる商品にするのが俺達の仕事だ。そんな者の障害になる作家生徒か芸術性とかは犬にでも喰わせとけ。そんな「映画という商売」の誇りをぼくはトニーから感じるのだ。 
映画というのはそうした「撮影者の視線をあらわにする」奇妙な力を持っている。
上記に列記したものは、31本の中に収められた批評のほんの一部。面白い観点、辛辣な言及、新たな視点、ぜひともその刺激的な文章を映画とともに味わってほしい。

▷ 観賞
『映画評』を読んで、早速「リベリオン」を視聴してみた。率直にあまり面白いとは思えなかったが、なんだか見ていて楽しかった。次は、「金融腐蝕列島」「アイアン・ジャイアント」などを見ようかと思っている。
そしてまた、これから公開されていく映画も違った見方で捉えられるかもしれないと、ワクワクドキドキ。これからの映画生活に新たなスパイスが加わった気がする。果たしてどんな映画が私的なリストに加えられていくことか─
映画の記録


2015年10月12日月曜日

暴露:スノーデンが私に託したファイル

「暴露:スノーデンが私に託したファイル(グレン・グリーフォルド著、田口俊樹・濱野大道・武藤陽生/訳)」を読みました

◇「暴露:スノーデンが私に託したファイル」の概要
ニューヨーク生まれのジャーナリスト/グレン・グリーンウォルドが、NSAやCIAで勤務していたエドワード・スノーデンの持っている暴露情報を受け取り、リークしていくまでの顛末を綴ったもの。
暴露情報の内容をもとに、暴走する政府の実態を露わに、プライバシーの危機的状況とジャーナリズムでさえもが毒されている状況に警鐘を鳴らしている。


▷ 個人的印象
暴露内容が詳細であればあるほど、組織内固有の名詞や英語圏特有の略語が頻出するので、全く頭に入ってこなくなります。ただ、それが何を意味しているのかは漠然と把握はできます。要するに、NSAなどが独自のソフトウェア開発して世界中のネットワークから個人情報を傍受しているという実態がある、ということなのでしょう。
ただ、次のような文章にはさすがに震撼させられます。
「マイクロソフト、ヤフー、グーグル、フェイスブック、バルトーク、AOL、スカイプ、ユーチューブ、アップルといったアメリカのサーヴィス・プロバイダーのサーバーから、直接データを収集していた」(『暴露』より)
政府がナイショでコソコソと行っている情報収集に、ほとんどの巨大企業が協力していたということであり、もはや個人的なナイショのメールなど存在しないのでは?
某SF小説の中で「諜報活動が激しさを増し、情報のやりとりは通信ではなく伝書鳩が主流となった」と記されていたのを思い出してしまいました。
このデジタル時代は、インターネットにしかもたらせない個人の自由と政治の自由を約束しているのか。それとも、インターネットは史上最悪の暴君の野望をも超える、逃れられない監視と支配をもたらす道具と化してしまうのか。今この時点ではどちらもありうる。どちらの道を進むかは、ひとえにわれわれの行動にかかっている。(『暴露』より)
◇ スノーデン
著者が情報提供者であるスノーデンを直接取材したのは、香港での10日間だけ。それ故に、彼の人物像やどうしてアメリカ政府を敵に回すという決意に至ったのかという理由についても、説得力に欠けるように思える。
「人間のほんとうの価値は、その人が言ったことや信じるものによって測られるべきではありません。ほんとうの尺度になるのは行動です。自らの信念を守るために何をするか。もし自分の信念のために行動しないなら、その信念はおそらく本物ではありません」
「われわれ自身が自らの行動を通して人生に意味を与え、物語を紡いでいく」
「自分の主義を守るための行動を取ることを、恐れたままではいられなかった。そんな人間にはなりたくありませんでした」(『暴露』より)
スノーデンが語るこれらの言葉こそが情報提供に至った理由として掲げられている。倫理観、正義感、まさにそれしかないピュアマインド─
スノーデンの世代の人間は、文学やテレビ、映画と同じように、ゲームを通じて政治意識やモラルを養い、この世界における自らの居場所を見いだしている。彼らはゲームの中で複雑な道徳上のジレンマに直面し、物事を深く考えるようになるのだ。(『暴露』より)
インターネットの価値について語る彼は生き生きとして、情熱的でさえあった。「多くの若者にとって、インターネットは自己実現の場です。彼らはそこで自分が何者なのかを探り、何者になりたいのかを知ろうとする。しかし、それが可能になるのは、プライヴァシーと匿名性が確保される場だけです。何か失敗をしても、正体を明かさずにすむ場合だけです。私が危惧しているのは、そんな自由を味わえるのも、もしかしたら私の世代が最後になってしまうかもしれないということです」 (『暴露』より)
つまりは、ピュアマインドからのピュアな行動─。そして彼は語る─
自分の目的は、プライヴァシーを消滅させるNSAの能力をぶち壊すことでない、と。「その選択をするのは私の役目ではありません」。つまるところ彼はアメリカ国民と世界じゅうの人々に知らせたかっただけなのだ。彼らのプライヴァシーに何がなされているかを。(『暴露』より)
著者は本の冒頭、序文の中で次のようなことを述べている。
政府によるプライヴァシー侵害への抵抗は、実のところ、合衆国建国の大きな要因だった。アメリカに入植した者たちは、イギリス当局がどこでも好き勝手に家宅捜索ができる法律に抗議した。 (『暴露』より)
合衆国憲法修正第四条にはアメリカの法におけるこの考えが明記されており、この条項の文言は明確かつ簡単だ。「国民が、不合理の捜索および押収または拘留から身体、家屋、書類及び所持品の安全を保障される権利は、これを侵してはならない。いかなる令状も、宣誓または宣誓に代わる確約にもとづいて、相当な理由が示され、かつ、捜索する場所および抑留する人または押収する物品が個別に明示されていない限り、これを発給してはならない」。アメリカでは政府が全国民をひとくくりにした疑念なき監視権を持つことを永遠に禁ずる(『暴露』より)
個人の真の自由を勝ち取るため、正義の味方スノーデンは立ち上がったのだ。その行動、衝動は理解できる。しかし、動機に関しては読み取ることができず、人柄などの記述も満足いくものではない。限られた少ない期間の取材であったわけだから、致し方なしか…。


◇ アメリカの愚行
裁判所は<ベライゾンビジネス社>に、(一)アメリカと海外とのあいだでの通信、および(二)市内通話を含む、アメリカ全土の“詳細な通話記録”のすべてをNSAに提出するように命じていた。(『暴露』より)
その裁判所命令には、こうしたアメリカ人の通話記録の大規模な収集活動は愛国者法第二一五条により認められていると明記されていた(略)愛国者法の対する過激な解釈(略)その裁判所命令には、こうしたアメリカ人の通話記録の大規模な収集活動は愛国者法第二一五条により認められていると明記されていた(『暴露』より) 
2006年に、ニューヨークでギャングの犯罪容疑に関する訴訟を担当した連邦裁判所判事は、FRBがいわゆる“ローヴィング・バグ”─遠隔地から個人の携帯電話を起動させて、盗聴器として使うこと─を合法捜査として認めていた。(『暴露』より)
外国諜報活動監視裁判所は、政府権力を純粋に監視する機関として設立されたわけではない。1970年代に発覚した訃報監視活動への市民の怒りを静めるため、見せかけの改革として設立されたものだ。(略)法の番人として独立した裁判所というよりは、行政機関内の一部署とずっと見られてきた。(『暴露』より)
中国のインターネット機器製造会社に対するアメリカの告発には容赦がなかった。(略)中国製のルーターやその他の機器に監視装置が埋め込まれているという確証を得ていたわけではなかった。にもかかわらず、彼らはこれらの業者が協力を拒んだということで、彼らの製品を購入しないようアメリカ企業に呼びかけた。(『暴露』より)
 中国製品は信用できないという合衆国政府の非難の背景には、中国が監視をおこなっているという事実について世界に警告を発したいという思いがあったのだろう。しかし、中国製機器にアメリカ製機器のシェアを奪われてしまえば、NSAの監視網が狭まってしまうというのも大きな動機としてあったはずだ。言い換えれば、中国製のルーターやサーバーは経済的な競合相手というだけではなく、監視の手段としても競合していたということだ。ユーザーひとりがアメリカ製品ではなく中国製品を買うだけで、NSAは大量の通信に対するスパイ行為の決め手を失ってしまうことになる。(『暴露』より)

◇ 巨大な監視網
そもそも何故にこういった監視網が構築されたのか。
陸軍大将キース・B・アレキサンダー(略)、2003年、イラク占領時の信号情報収集を断行した。(略)戦闘地域の外国向けにつくられたこのユビキタス監視システムを、アメリカ国民の監視に導入できないかと考えるようになる。 (『暴露』より)
その目的とは何なのか。
“国益、金、エゴ”の三要素のすべてが、地球規模の監視を独占しつづけようとするアメリカの大きな動機になっているのだそうだ。(『暴露』より)
この壮大な構想の中に置いて、自分のような凡人には全く無関係としか思えないのだが、それこそが監視社会をつくりだす悪因となってしまっているのだ。
ユビキタス監視が驚異的な支配力を発揮し、結果として人々を自己検閲に駆り立てることは、さまざまな社会科学実験で証明されてきた。(略)「監視の萎縮効果」(略)見られていることが、いかに個人の選択を狭めるか(略)家庭のような最も私的な環境においても、単に見られているという理由だけで、普通であれば取るに足らない些細な行動が自己判断や不安を呼び起こすことがある。(『暴露』より)
もともと、この監視システムはテロを未然に防ぐことを目的として進められてきた面があるが、その効果たるもの惨憺たるものである。個人の情報を網羅しようとしているのに、個人的に引き起こされたテロ事件を、何一つとして未然に防ぐことができていない。
2013年のボストンマラソン爆弾テロ事件を防ぐことはおろか、何かを検知することすらできていなかった。クリスマスの日のデトロイト上空での航空機爆破未遂事件を予見することも、タイムズスクウェア爆破未遂事件やニューヨークの地下鉄爆破未遂事件を見抜くこともできなかった。これらの事件はすべて、たまたま近くに居合わせて検知した一般人や、従来の警察力によって未然に防がれたのだ。そして言うまでもなく、コロラド州オーロラやコネティカット州ニュータウンでの銃乱射事件を阻止することもできなかった。ロンドンからムンバイ、マドリッドまで、国際的な大規模襲撃が起きたときにも、少なくとも何十人もの工作員が従事しながら未然に防ぐことはできなかった。(『暴露』より)
つまり私たちは次のことを真剣に考えなくてはならない。
「制限のない監視は私たち個人にとって、私たちの生活にとって、どんな意味を持つのか?」(『暴露』より)
「誰かからも干渉されない権利は最も包括的であり、自由な人間が最も大切にする権利である」(『暴露』より)

◇ ジャーナリズム
司法・行政・立法に並んで、社会の第四権力とされる報道。そこに従事している筆者が、今回のこのリークで経験した具体的事柄を引き合い出し、ジャーナリズムの危機というものを最も強く叫んでいる。
機密情報の公表は合衆国政府にとって(曖昧ながらも)犯罪ととらえられ、相手が新聞社であったとしてもスパイ活動防止法違反に問われかねない。(略)これまで政府は報道機関の刑事訴追を避けてきたが、それは報道機関が暗黙のルールに従って事前に公表内容を伝え、国家の安全保障に危険が及ぶ可能性について政府側に反論する機会を与えていたからだ。このプロセスを踏み、機密文書の公開によって国家の安全保障を脅かす意図や、訴追に該当する犯意がないことを新聞社は明示しなくてはいけない(『暴露』より)
<ウィキリークス>がイラクとアフガニスタンでの戦争の機密文書を発表し始めると─とりわけ外交公電の公開が始まると─<ウィキリークス>の刑事訴追を求める声がアメリカ人ジャーナリストたちのあいだからあがった。私としてはこれは驚愕すべき反応としか言いようがない。たとえ上辺だけだとしても、権力者の行動に透明性をもたらすことがジャーナリストの務めではないのか。そのジャーナリストが、大きな透明性をもたらした歴史的行動を非難し、さらには犯罪だと声高に叫んだのだ。(『暴露』より)
ジャーナリズムの世界に身を置く多くの者にとって、政府から“責任ある”報道というお墨つきをもらうこと─何を報道すべきで何を報道すべきでないかについて、彼らと足並みを揃えること─が名誉の証しとなっている。これは事実だ。そして、それが事実であるということが、アメリカのジャーナリズムがどれだけ体制の不正を監視する姿勢を失ってしまったか、そのことを如実に物語っている。(『暴露』より)
政府が最も嫌うものは、反体制的なものであり、最も苦手とすることは透明性を維持しようとすることかもしれない。そういった苦手や負の面や苦手なところを補ってくれているのがジャーナリズムなのかもしれません。それは、決して政府のためではなく・政府を補うためではなくて、自分たちのような一般市民のために存在するものなのです。つまりは、司法と立法と報道が結託して行政の思い通りに動くなど、民主主義社会としてあるまじきものなのです。
読破に難渋した本ですが、そういった意義深い感情を思い起こさせてくれました。