2015年11月20日金曜日

チェルノブイリの祈り 未来の物語

チェルノブイリの祈り 未来の物語 (スベトラーナ・アレクシエービッチ著、松本妙子[訳])を読みました

▢ スベトラーナ・アレクシエービッチについて
ウクライナ生まれで現在ベラルーシの国籍を持つジャーナリスト。父親がベラルーシ出身で母親がウクライナ出身。
2015年ノーベル文学賞を受賞、ジャーナリストとしては初の受賞。
「戦争は女の顔をしていない」は第2次世界大戦に従軍した女性の関係者を取材したもの、「ボタン穴から見た戦争」は第2次大戦のドイツ軍侵攻当時に子供だった人々を取材したもの、「アフガン帰還兵の証言」はアフガニスタン侵攻に従軍した関係者や家族を取材したもの。
現在、容易に入手できる日本語訳は「チェルノブイリの祈り」のみ。非常に残念なことではあるが、図書館などを利用すると、意外とアレクシエービッチの本は見つかる。

▢「チェルノブイリの祈り」概要
1997年刊行、翌年日本語訳が出る。
文字通り1986年に発生したチェルノブイリ原発事故のことを綴ったもの。主に取材した関係者の声を文章化したもの。
著者の気持ちの語りとして文章化されて、この作品における趣旨が提示されている。
この本はチェルノブイリについての本じゃありません。チェルノブイリを取り巻く世界のこと、私たちが知らなかったこと、ほとんど知らなかったことについての本です。(略)
この本は人々の気持ちを再現したものです。事故の再現ではありません。
取材報告という形式でありながら、ここにあるのは個々の主観でしかない。客観的事実というものは、ここには皆無であるといっても過言でなく、事故についての客観的事実を知りたければ他の書物を参考にした方がいい。
あくまでこれは文学として評価されるべきものであり、それ故のノーベル文学賞なのだと理解できる。

▷「チェルノブイリの祈り」から思うこと
非常に心が揺さぶられました。事故そのもののこと、原発そのもののこと、フクシマのこと、日本の将来のこと…考えさせられることがたくさんあったように思います。
そもそも、チェルノブイリというのはどこにあったのか─。今さらながらなんですけれど、ソ連としか答えることができない人が多いはず。確かに事故当時はソ連であり、現在で言えばウクライナにあり、しかもベラルーシとの国境沿いに非常に近く、国土が最も汚染されたのは現在のベラルーシだという事実など、全くの無知でした。
事故当時、日本でもチェルノブイリの放射性物質が観測されたものの、対岸の火事という思いは拭い去れなかったような気がします。それがいま、日本にとってしてみれば間違いなく他人事ではないわけです。
…ごくふつうの、たいしたことのない男。(略)ところが、ある日、この男が突然チェルノブイリ人に変わるんです。
「りんごはいかが、チェルノブイリのりんごだよ」。だれかがおばさんに教える。「おばさん、チェルノブイリっていっちゃだめだよ、だれも買っちゃくれないよ」「とんでもない、売れるんだよ。姑や上司にって買う人がいるんだよ」
すてられた家。ドアに貼り紙。「親愛なる方へ、貴重品をさがさないでください。私たちの家にはなにもありません。なんでも使ってください。でも取っていかないで。私たちはもどってきますから」。
だれもなにひとつ理解していなかった。これがいちばん恐ろしいことです。放射線測定員がある数値をいう、新聞に載るのは別の数値だ。
新聞記事の断片が記憶にちらついた。わが国の原子力発電はぜったいに安全である。赤の広場に建てることも可能だ。
ぼくら1000万人のベラルーシ国民のうち、200万人以上が汚染された土地でくらしている。悪魔の巨大実験室です。データの記録も実験も思いのままですよ。各地から訪れては学位論文を書いている。モスクワやペテルブルク、日本、ドイツ、オーストリアから。彼らは将来に備えているんです…。
これらの記述を目にすると、間違いなく福島原発事故のことを想起するし、これほどの警告が事前に発せられていたにもかかわらず、私たち日本人は何もできなかったと言わざるを得ません。
原爆を落とされながら、原発を推進させて、さらに原発事故を引き起こし、それでもなお原発を無くそうとしない我々にとって、チェルノブイリからの声というものは果たして必要がないものなのでしょうか?
あなたの前にいるのはご主人でも愛する人でもありません。高濃度に汚染された放射性物体なんですよ。
どんな小さな縫い目でもからだに傷ができました。 
あなたは原子炉のそばにすわっているのよ
ぜんぶ私のもの、私の大好きな人
遺体は放射能が強いので特殊な方法でモスクワの墓地に埋葬されます
私があなたにお話ししたのは愛について。私がどんなに愛していたか、お話ししたんです。
これらはチェルノブイリ事故で消防にあたって亡くなった妻の言葉です。確かに、福島事故とは質が違うもので、あまり共通点を見いだせないかもしれません。しかしながら、原発事故での被曝というものは広島・長崎の原爆同様に悲惨なものであり、福島ではたまたまそうならなかっただけで、これから未来においても同様な状況が生まれる可能性があるということを示唆しているわけです。なぜならば、日本には原発が存在するからです。
チェルノブイリと同様のことが起こったとしたら…その悲しみは計り知れないと言うことを、我々はこの本から学ばねばならないのです。
ぼくらが失ったのは町じゃない、全人生なんだということ。
福島から避難している人たちも、同様の思いであると察せられます。

ところで、サマショールという言葉をご存じだろうか? 自分は勉強不足で、この本に接するまで無知でした。
チェルノブイリ事故で強制疎開の対象となった村に自分の一存で帰ってきて住んでいる人のことを、そのように言うのだそうだ。
放射能はどんなものなの? もしかしたら、いつかそんな映画があったの? あなたは見なさった? 白いの、それともどんなの? どんな色? 色がないんなら、神さまのようなもんだね。神さまはどこにでもいなさるが、だれにも見えない。おどかすんだよ。でも、庭にはリンゴがなってる。木には葉っぱ、畑にはジャガイモがある。チェルノブイリなんていっさいなかったんだと思うよ。でっちあげよ。住民はだまされちまったんだ。
ぼくたちは知っている。動かせる物はすべて盗まれ、持ち出されてしまっていた。汚染地がまるごとこちらへ運んでこられたんです。自由市場や、委託販売店、別荘をさがしてみてください。有刺鉄線の向こう側に残っているのは土地だけです。それと、墓。 
土地を奪われた不安というものは、当事者でない限り真に理解するのは難しい。立ち入り禁止区域になぜ戻っていくのかも、そこに住んでいなければ分からないことなのかもしれない。
おとなしくて口数の少なそうな男の子でしたが、赤くなり、くちごもりながら聞いたのです。「どうしてあそこに残っている動物を助けちゃいけなかったの?」ぼくは答えられなかった。ぼくらの芸術は人間の苦悩と愛に関することだけで、このもうひとつの世界におりていこうとしない。なのに、人間はあらゆる生き物にむかってチェルノブイリをふりあげてしまったんです。 
最近私の弟が極東から遊びに来ました。「お兄さんたちは、ここで『ブラックボックス』のようだな。『人間ブラックボックス』だよ」という。『ブラックボックス』というのは、どの飛行機にあっても、飛行中の全情報が記録されるのもです。ぼくらはこう思っている。生きている、話をしている、歩いている、車に乗っている、愛しているとね。ところが、ぼくらがしていることは情報の記録なんですよ!
4年後に初めて、娘の恐ろしい異常と低レベルの放射線の関係を裏づける診断を発行してくれました。4年間拒否され、同じことをいわれてきました。「あなたのお子さんは普通の障害児なんです」
老婆が教会でお祈りをしている。「私たちのすべての罪を許したまえ」。だが、学者も技師も軍人もだれひとりとして自分の罪を認めようとしません。「私には悔い改めることなどなにもない。なぜ私が悔い改めなくてはならないのかね?」。そういうことなんです。
「ウランの崩壊、ウラン238の半減期ですが、時間に換算すると10億年なんですよ。トリウムは140億年です」。50年、100年、200年、でもその先は? その先はぼくの意識は働かなかった。ぼくはもうわからなくなったんです。時間とはなにか? ぼくがどこにいるのか?
私たちはプリピャチ市に住んでいました。原発のすぐ近くに。暗赤色の明るい照り返しが、いまでも目のまえに見えるんです。原子炉が内側から光っているようでした。普通の火事じゃありません。一種の発光です。美しかった。こんなきれいなものは映画でも見たことがありません。
同級生はみな息子をこわがり、<ほたる>とあだ名をつけたのです。
チェルノブイリ、そして、まだ経験したことのない新しい感情、私たちひとりひとりには個人の生活があるんだということ、それ以前は、必要ないと思っていたことを、こんどは人々は考えはじめたのです。自分たちがなにを食べるか、子どもになにを食べさせるか、健康に危険なものはなにで、安全なものはなにか? ほかの場所に引っ越すべきか、否か? ひとりひとりが決めなくてはなりませんでした。ところが、私たちが慣れていたのはどんな生活? 村単位、共同体単位、工場単位、集団農場単位の生活です。私たちはソ連的、集団的人間だったのです。
農村の人たちがいちばんきのどくです。(略)彼らはなにが起きたか理解できず、学者や教育のある者を信じようとしたのです、司祭を信じるように。ところが、くり返し聞かされたのは「すべて順調だ。恐ろしいことはなにもない。ただ食事のまえに手を洗うように」。私はすぐにはわからなかった、何年かたってわかったんです。犯罪や、陰謀に手をかしていたのは私たち全員なのだということが。
旧ソ連の各原発の金庫には事故処理プランがおさめられていました。標準的プランで、極秘扱いです。このプランがないと発電所を稼動する許可が得られないのです。事故の何年もまえのこと、プラン作成のモデルとなったのが、まさにこのチェルノブイリ発電所だったのです。なにをいかになすべきか、責任者はだれか、どこにいるべきか、と細部にわたっています。そして、とつぜん、このチェルノブイリ発電所で大惨事が起きた。これはどういうことなんだろう、偶然の一致なのか?
ひとりひとりが自分を正当化し、なにかしらいいわけを思いつく。私も経験しました。そもそも、私はわかったんです。実生活のなかで、恐ろしいことは静かにさりげなく起きるということが。
最後の核弾頭が廃棄処分されても、原爆はなくならないでしょう。知識は残るのです。
認めなくてはなりません、起こったことをだれも信じていなかったと。学者でさえも信じることができなかったのです。こんな例はないんですから。わが国だけではなく、世界のどこにも。
お忘れになったのですか、チェルノブイリ以前は原子力は平和な働き手と呼ばれ、われわれは原子力時代に生きていることを誇りに思っていたじゃありませんか。
あなたはお忘れなんですよ。当時、原子力発電所は未来だったんです。われわれの未来だったんですよ。
私たちは入院していたの、とても痛かったから、ママに頼んだの。「ママ、がまんできない。殺してくれたほうがいいわ」
確かに、これらの声を読むと、共産圏で発生した異常な出来事であることがよく分かる。しかし、決して別世界のことだと片づけることができない。とくに我々日本人は、紛れもなく当事者であり、すべての声に福島との共通点を見いだすことができるはずだ。

2015年現在、福島原発事故から4年─。あと6年ほどして10年後になると、福島からの祈りが発せられてくるのだろうか。
どんなに悲しい状況が語られたとしても、悲しいかな、同様の出来事は繰り返されるような気がしてなりません。
原子力というものを手にした時点で、もはやこの呪縛から逃れられない運命にあるのでしょう。そうであるのであれば、せめて「チェルノブイリの祈り」にある“孤独な人間の声”を真摯に受け止め、その出来事における悲しみはどんなものかということをしっかりと認識しておかなければならないと思います。
決して拭い去ることができない人類の悲しみというものは、チェルノブイリだけにあるのではなく、全世界に存在しているのです。








2015年11月4日水曜日

ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石

「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石(著:伊集院静)」を読みました

▢「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」について
1887年(明治20年)正岡子規21歳から、1902年(明治35年)子規34歳没までの物語。東京大学予備門から帝国大学時代、新聞「日本」入社から「小日本」の編集、「ホトトギス」の編集、「墨汁一滴」から「病牀六尺」まで、それらの期間に起こったであろう出来事が中心にストーリーが展開していく。
子規こと正岡常規は百ほどもの別名を考えたという。1889年、大喀血をし肺病と診断され次のような句を詠んだ。
卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)
卯の花の散るまで啼くか子規(ほととぎす)
以降、子規と名乗った─、そんなエピソードなどを夏目漱石とのやりとりを絡めて描いている。
漱石こと夏目金之助は、正岡子規が著作した「七草集」の批評の中で初めて漱石の名を用いた。漱石とは漱石枕流という中国の故事に由来するもの。その漱石という名は、子規が最初に使用した別名であったが、夏目金之助がさりげなくその名を受け継いだ。
子規と漱石は、幼なじみでもなかったし、出会ったのも予備門時代からであり、ともに騒がしく遊ぶでもなく、会話もそれほど盛んだったとはいえないようだ。しかしながら、ともに互いを一番の理解者であると感じていたようだ。

▷ 個人的な楽しみ方
自分が「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」を読もうとしたきっかけは「病牀六尺」を既読後からだった。二つの作品を照らし合わせて読むと、非常に面白かった。正直、「病牀六尺」には所々理解しかねる事柄があった。それを補うかのように「ノボさん」を読み始めたわけだ、失礼な話ではあるけれど…。
小説「坂の上の雲」ドラマ「坂の上の雲」も観賞済みであったから、いまさらという気が大いにしていた。正直読みながら常に香川照之の映像が頭に浮かんでいたし、必死に秋山真之の文字を探していた。
確かに、描かれている正岡子規像は想像の域を出ないもの。だから、駄目というわけでもなく、むしろだからこそ楽しめた側面もあった。子規に関する情報は事前に把握していたために、余計、他の物事に関する情報を吸収できたような気がする。
ストーリー展開は周知のもの。子規以外のことをいかに楽しむか、それがこの本の醍醐味。夏目漱石とのやりとりというのもその中に含まれることではあるけれども、もっとも心を動かされた事柄は、母・八重の描かれ方かもしれない。彼女が最後に発した言葉の信憑性は分からないけれども、非常に説得力があった。そして、涙した。