▢「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石
1887年(明治20年)正岡子規21歳から、1902年(明治35年)子規34歳没までの物語。東京大学予備門から帝国大学時代、新聞「日本」入社から「小日本」の編集、「ホトトギス」の編集、「墨汁一滴」から「病牀六尺」まで、それらの期間に起こったであろう出来事が中心にストーリーが展開していく。
子規こと正岡常規は百ほどもの別名を考えたという。1889年、大喀血をし肺病と診断され次のような句を詠んだ。
卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)以降、子規と名乗った─、そんなエピソードなどを夏目漱石とのやりとりを絡めて描いている。
卯の花の散るまで啼くか子規(ほととぎす)
漱石こと夏目金之助は、正岡子規が著作した「七草集」の批評の中で初めて漱石の名を用いた。漱石とは漱石枕流という中国の故事に由来するもの。その漱石という名は、子規が最初に使用した別名であったが、夏目金之助がさりげなくその名を受け継いだ。
子規と漱石は、幼なじみでもなかったし、出会ったのも予備門時代からであり、ともに騒がしく遊ぶでもなく、会話もそれほど盛んだったとはいえないようだ。しかしながら、ともに互いを一番の理解者であると感じていたようだ。
▷ 個人的な楽しみ方
自分が「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石
小説「坂の上の雲
確かに、描かれている正岡子規像は想像の域を出ないもの。だから、駄目というわけでもなく、むしろだからこそ楽しめた側面もあった。子規に関する情報は事前に把握していたために、余計、他の物事に関する情報を吸収できたような気がする。
ストーリー展開は周知のもの。子規以外のことをいかに楽しむか、それがこの本の醍醐味。夏目漱石とのやりとりというのもその中に含まれることではあるけれども、もっとも心を動かされた事柄は、母・八重の描かれ方かもしれない。彼女が最後に発した言葉の信憑性は分からないけれども、非常に説得力があった。そして、涙した。
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