▢「父と暮せば
1994年初演の舞台作品、2001年に新潮文庫として初版、2004年に映画化。1997年にはフランス語訳でフランス各地で上演されるなど、海外でも評価されている。
内容は、広島原爆投下を題材に二人の登場人物だけで展開されている。
日本語における原作は、広島弁を大いに活用している。文章化された方言を読むことは多少のつらさを覚えるし、その表現が本当に正しいのかどうかもよく分からないところがある。現に、広島出身者からも違和感を持つような感想などが報告されている。
ただ、この作品の本来の姿は舞台であるわけだから、活字だけで評価してしまうことは早計なのかもしれない。海外訳でも評価されている現実を見ると、根底にある主題がよく伝ったことが重要なのかもしれないと、作者自身も語っている。
文章で堪能する場合は、自分なりの広島弁を頭に響かせながら読み進めることが賢明なのかもしれない。
▷「母と暮せば」を見るために
おそらく私の一生は、ヒロシマとナガサキとを書きおえたときに終わるだろう前口上として、井上ひさしが書き残した言葉です。
ナガサキにあたるのが「母と暮せば」という題名の作品、そういう発言を残したまま志半ばで他界した作家の遺志を継ぎ、映画という形でナガサキを描いたのが山田洋次監督です。偉大な芸術家らが伝えたかったことを深く明確に捉えるためには、「父を暮せば」を読み(あるいは見てから)、その上で「母と暮せば」を見るべきだと、勝手に自分の中で思ってしまいました。
そうしてみた今、この自分勝手な決めごとは、正しかったと思えます。
広島の上空580メートルのところで原子爆弾ちゅうもんが爆発しよったのは知っちょろうが。爆発から1秒後の火の玉の温度は摂氏1万2000度じゃ。やい、1万2000度ちゅうのがどげえ温度か分かっとんのか。あの太陽の表面温度が6000度じゃけえ、あのとき、ヒロシマの上空580メートルのところに、太陽が、ペカーッ、ペカーッ、二つ浮いとったわけじゃ。頭のすぐ上に太陽が二つ、1秒から2秒のあいだ並んで出よったけえ、地面の上のものは人間も鳥も虫も魚も建物も石灯籠も、一瞬のうちに溶けてしもうた。(略)
……非道いもんをおとしおったもんよのう。人間が、おんなじ人間の上に、お日さんを二つも並べくさってのう。日本で生活している人々は、もはやこの国が被爆国であることを忘れてしまっているのではないか、自分も含めて…、昨今そう思わざるを得ない事柄が次々起こっている気がします。福島原発事故がまさにその象徴のようなもの─、原発を電力の主軸にし、事故を起こし、それでもなお原発を捨てようとしない、いずれ核兵器を持つことにも抵抗を持たなくなるかもしれません。
原爆の本当の恐怖を知っているのは、日本で生活している人でなければならないはずだと思います。悪魔の太陽に焼かれて死んでいった人たちを知っているはずで、原爆病という見えない恐怖と闘い死んでいった人たちのことも知っているはずです。
戦後、見事に復興したその前に、そこまでの苦労の事を、生き残ったそして今生き残っている・今現在日本の中で生きている人々のどれだけが、本当に理解しているのか疑問に思います。
「なひてあんたが生きとるん」原爆の悲劇は、散っていった人たちや被った人たちばかりでなく、生き残った人たちにも大きな影響を与えているということを、「父と暮せば」「母と暮せば」という偉大な作品でもう一度自覚しなければなりません。
「うちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか」
うち、生きとるんが申しわけのうてならん。
うちゃあ生きとんのが申し訳のうてならん。じゃけんど死ぬ勇気もないです。
▷ ふたつの作品、その感想(※ネタバレになるかもしれません)
「父と暮せば」は短い戯曲だったので、読みづらさを感じつつも、すぐに読み切ることができました。ゆえに、映画「母と暮せば」を見ようとしていてまだこの戯曲を読んでいない人には、事前の読破を強くすすめたいところです。
生き残った者の葛藤、生き続けていくこと、そのテーマを身に染みて感じることができました。これら作品を見て、いわゆる核のボタンなるものを押せるのか、そう問いたくなるわけで、そう思うと、ぜひとも核保有国において広く堪能されてほしい作品だと思います。
しかし、フランスでは10年以上も前に演劇が上演されているわけで、だからといって核兵器を捨てるわけでも原発を捨てるわけでもないし、ましてや日本においては原発事故まで起こしてしまう始末であるわけだから、一個人がどれほど心を動かされようが、何も変わらないのかもしれません。
ふと思います。
もし、2010年に他界している井上ひさしが福島原発事故を目撃したのならば、どのように感じたであろうか─。
「父と暮せば」は希望に向かって歩み出す人間像で終わっています。一方、「母と暮せば」では悲しい結末が待ち受けています。エンディングの映像自体は非常に煌びやかに演出されているものの、内容そのものは悲しみ以外の何ものでもありません。
吉永小百合演じる福原伸子は、二宮和也演じる福原浩二に導かれながら旅立っていくけれども、実際は孤独死でしかなく、あの演出は山田洋次監督の優しさでしかないのです。
原爆には何もいいことはありません。
井上ひさしは希望をもって終わらせました。
山田洋次は絶望でありながらも希望を持たせつつ終わらせています。
次なる作家は、次は福島を扱うのかどうか分からないけれども、どのような結果を描こうとするのか、それはこれからの日本に生きる我々の振るまい方次第だと思います。
決して絶望だけにはしたくないものです。
「父と暮せば」がおとぎ話とか昔話にならないことを祈るばかりです。祈るばかりでなく、そうならないように振る舞っていかなければなりません。