2015年12月11日金曜日

日本語練習帳

「日本語練習帳(著:大野晋)」を読みました

▢「日本語練習帳」概要
新書版で薄い本。しかし、中身は濃い。
問題形式になっているため、読破には予想以上の時間を費やす。見た目以上に手強い本ではあるが、文法など概念的要素を重視するのではなく、あくまで文章の捉え方・作り方を重視しながら新聞の社説や実際の小説などを題材にしているため、より実践的に日本語能力を鍛えていくことができるだろう。
1999年に発表され大ベストセラーとなり、いまだに読まれ続けている。確かに、薄くて挑みやすそうに見えるため、多くの人がこぞって読もうとするのかもしれない。
しかしながら、ただ読むという行為だけでは処理しきれないのがこの本の濃い部分。文や文字について能動的に挑もうとしなければ、この本を読む意味が半減してしまう。
しかも、これは単なる始まりに過ぎない。これをきっかけにして、明日の新聞社説や本棚にある小説を題材に、文章能力を鍛えていかなければ、これを読む価値はない。
それと同時に言えるのは、文章能力に絶対の自信がある人は、読む必要はだろう。

▷ 単語に敏感になる
考える、思う、その違いは何か…。自分にとってそんなのはどうでもよいことであった。本も活字もそれほど積極的に活用してこなかったため、単語に対する微妙なニュアンスなど全く考えずに、文章を読み、文章を綴ってきた。
それはそれで、理解可能であり伝達可能でもあるだろう。しかし、深く文章を理解し、自分の考え・思っていることを正確に伝え切れていたのか、大いに疑問に思ってしまう。
会話の中で、喋っていることが伝わっていないと感じたことは誰にでもあるだろう。それはお互いの考えや捉え方の相違というものが原因かもしれないが、もしかしたら自ら発している言葉がまずいのでは? まずは、そう考えるべきかもしれない。
こうやって自分の考えや思いを文章にしているときに、果たしてどのくらい正確にそれを表現して切れているのか、今一度ひいた目で自分自身の文章能力を眺めてみると、寒気を覚えてしまった。
今この瞬間の思いを正確な語彙として本当に表現しきれるのか? そう考えたとき、自ら持っている語彙の貧弱さに愕然とせざるを得ない。
いまある自分の日本語能力をここで自覚し、そして、その能力を高めるべく、鍛えていかなければならない、この本を読み終えて、そういう思いでいる。

▢ 自らを奮い立たせる著者の言葉の引用
言葉は制度とか決まったものとかではない。しかし思うままに造形する絵画のような、主体性だけによってなされる表現行為でもない。言葉には社会的な規範がある。その規範にかなう形式に従わなければ、主体的に自分の気持ちや事柄を相手に表現することはできない。受け手は規範に従って表現を受け取り、理解につとめる。聞くことも読むことも、主体的な能動的な行為です。それは規範に従うことを通して成り立つ。言語とはそういう表現行為、理解行為の全体をいうのではないか。(中略)言葉は天然自然に通じるものではなくて、相手に分かってもらえるように努力して表現し、相手をよく理解できるようにと努力して読み、あるいは聞く。そういう行為が言語なのだと私は考えています。
この著者の言葉を糧に、生涯、言葉を理解していこうと心に誓う。


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