2016年1月27日水曜日

泰平ヨンの未来学会議[改訂版]

「泰平ヨンの未来学会議[改訂版](著:スタニスワフ・レム、訳:深見 弾/大野典宏)」を読みました

 泰平ヨンの未来学会議 概要
ポーランドの作家、スタスワフ・レム(1921-2006)が1971年に発表。スタスワフ・レムは2度映画化された「ソラリス」など、SF作品で有名である。
泰平ヨンが登場するシリーズは「未来学会議」のほかに「航星日記」「回想記」「現場検証」などがある。「未来学会議」は「コングレス未来学会議」として映画化された。

▢ 泰平ヨンの未来学会議 あらすじ
第八回世界未来学会議がコスタリカで開かれた。そこでは人口の激増とその阻止がおもに討議されることになっている。泰平ヨンはそこに参加すべく、会場のコスタリカ・ヒルトンに宿泊する。会議が始まるとテロ事件が発生、軍がそれを鎮圧させるために放った<誘愛弾>が誤ってヒルトンで爆発してしまう。それを吸ってしまったヨンたちは、いつの間にか未来のユートピアと誘われて行く。そこで目にしたのは精神化文明(セラピライゼーション)の時代と呼ばれる社会であった─。

▷「コングレス未来学会議」と「泰平ヨンの未来学会議」
「泰平ヨンの未来学会議」を知ったのは、アンリ・フォアマン監督の映画「コングレス未来学会議」が公開されるとの情報を得てからだった。アンリ・フォアマンの名もスタニスワフ・レムの名も知っていたので、映画にも書籍にも興味を持った。
コンセプトは一緒でもその内容はかなり違う。原作は男性が主役で未来学会議から話が始まる。一方、映画は女優が主役で会議会場に赴くまでの前置きがかなり多い。
映画から先に見たが、ここまで話が違うとは思っていなくて、こうして今さらながらに原作を読み切り、再度、映画を見返してみたいと思ってるところだ。
原作から先に読んでいれば、このめくるめく世界観をどのように表現されるかなど想像つかなかっただろう。結論からいえば、映画ではアニメーションと実写を組み合わせることでそれを見事に表現しきっていた。アニメーションを用いることで、自由自在にユートピアを描いている。その創造力たるや、決して原作にひけを取らない。人によっては、この二つは似て非なるものというかもしれないが、個人的には楽しさが2倍になっていると思っている。原作と映画化の関係で、単に焼き写しになってしまうことほど、悲惨でつまらないものはない。

▷ 未来を描いたSF
1971年時点の近未来から物語は始まっている。恐らく2000年代前半という設定だろう。泰平ヨンはホテルの水道水の中に何かが含まれていることを感じる。
ラブタミン(慈愛覚醒剤)系の、脳に抽象的な歓喜と落ち着きを呼び起こす幻覚剤の新薬…(略)…快楽剤、多幸剤、陶酔剤、至福剤、感情移入剤、恍惚剤、鷹揚剤など、それに類したおびただしいドラッグだ!それと同時に、水酸基系の薬をアミノ酸で置き換えれば、それから、憤怒剤、反目離反剤、加虐性歓喜剤、鞭推剤、虐待亢進剤、挫折惹起剤、落花狼藉剤や、それ以外にもさらに多くの鞭殺亢進剤系の中の狂暴性を増幅する興奮剤が合成できるのだ(これらの薬品を服用すると、周囲にあるものを、生命があろうとなかろうと関係なく、鞭でひっぱたいたり愚弄するという傾向があるのだ──その場合いちばん強力な効果があるのは、埋葬剤と梵殺剤のはずだった)。
多くの不思議な名前の薬こそが物語のキーとなってくる。一風変わった名称がユーモアを生み出し、同時に非現実的な想像を刺激する。
<誘愛弾>が落下しはじめるに及んで、法の番人たちは互いに我先に駆け寄って、そばにいる者と相手の見境もなく抱き合って愛撫しはじめたのだ。
幻覚剤はすでに世の中で頻繁に使用されていた。傷つけるよりもよっぽどこっちの方がいいように思うのだが、幻覚が強すぎるとその弊害も甚だしい。
テロを抑え込むためにまかれた幻覚剤のせいで、泰平ヨンは幻覚の呪縛にはまってしまう。頻繁に幻覚が繰り返していくうちに、現実世界と幻覚とが判別できなくなってくる。
気が付くと脳だけがあらゆる肉体に移植され続けていた。女性になり、テロリストになり、知り合いの教授になったかと思うと、自分の肉体には別の誰かの脳が移植されていたり…再び脳と体が一体となっている感覚に戻ると、今度は冷凍保存されようとしていた。40年から70年後の解凍を見越した、いわゆる冬眠ということなのだろう。そして冷凍され無の状態へと落ちて行く。
解凍され目覚めると、そこは2039年、精神化学(サイコケミストリー)が中心の精神化文明(セラピライゼーション)と呼ばれる時代であった。
ようやく百科事典の入手方法がわかった。
学術陶象店で購入したのだ。今では本は読むものではなく食べるのだ。紙ではなく、砂糖をまぶした情報物質から作るからだ。
陶象店はひょっとして図書店から由来しているのではないのか?
周りの状況は一変していて、紛争など争いごとも全くなくなっていた。それというのも<誘愛弾>や幻覚剤など、薬が発達した恩恵のためで、薬によって精神を自在にコントロールしていたのだ。
麻酔剤や初期の幻覚剤のあとに、強力な選択効果がある精神焦点剤と呼ばれる薬が表れた瞬間から、文明の進歩はそちらの方向へ進まざるを得なかったのだ。だが、本当の意味での大変革が起こったのは、ようやくマスコン──つまり点覚剤が合成された25年前のことだ。麻酔剤は人間を世界から遮断するのではなく、それと関係を変えるにすぎないし、幻覚剤は世界全体を混濁させ覆うだけのことだ。ところがマスコンは世界を偽装するのだ!
つまり、感情を完全にコントロールしているのではなく、脳をだますことによって、あたかも平穏な心を保ち続けているような錯覚を作り出しているだけだったのだ。
しかるべく合成されたマスコンが脳に入ると、外界のあらゆる対象が虚構のイメージで覆われてしまう。それがあまりにも真に迫っているから、マスコンの影響下にある者は、現実に知覚が働いているのか、それとも虚妄状態にいるのかわからなくなってしまう。
地球上のほとんどの人は、虚妄状態ことに気付いていない。虚妄を現実と捉え、それを謳歌している。しかし、本当の世界を知る者も存在する。すべての人類が本当の地球を知らないのであれば、元も子もないからだ。真の世界を知る者は自らを現実在者と言っていた。泰平ヨンもアンチパラダイジンなる薬品をかぐことにより、真の世界を目の当たりにする。そこはすべてが嘘の塊だったのだ。
今年は2098年だ。合法的に登録されている人口だけでも690億人、他に登録されていない非合法な住民が260億はいる。年間の平均温度は4℃に落ち込んでいる。ここ15年か20年で氷河期がやってくるだろう。その進行を阻止することは不可能だし、遅らせることもできな──できるのは隠すことだけだ
決して明るい未来ではないし、しかも今現在の世界情勢を眺めると、まるっきり絵空事のようにも思えない。薬漬けとか、幻覚の弊害とか、明らかにこの現実世界を意識して描いている。未来への警鐘とはいわないまでも、このまま行くと異常な世界が待っているという意識を植えつけてくれる。
変な薬、変なロボット、笑えるけど未来だけど楽しい未来じゃない。しかし、ふと思う。もうすぐ滅亡という事実をつきつけられたならば、人類はどのような反応を示すのだろうと。自暴自棄になる人は少ないないだろう。だったら滅亡する事実を知らないままに滅亡した方がよっぽど幸せではなかろうか。何事も永遠なものはない、今のところ─。人類がその永遠を手にすることができるのかどうかは分からないけれども、幸せに滅んで行く方策ということを考えることこそが現実的かなと思わないでもない。
虚妄を現実と思いこんで滅んでいくことを肯定したわけではないけれども、笑いながら滅んでいくのも悪くないなと、この本を読んで思ってしまった。





2016年1月16日土曜日

國語元年

「國語元年(井上ひさし著)」を読みました

▢「國語元年」概要
Kindle版「國語元年」には、国語事件殺人辞典、花子さん、國語元年、3つの戯曲が収められている。
国語事件殺人辞典は1982年の作品で、現代を舞台に国語辞典の編纂を志す無名の学者のお話。不思議な題名が物語っているとおり、不思議な日本語が入り乱れ、少し読みづらい部分もあるけれども、普通ではないその言葉にはまると、非常に面白く感じる。
花子さんは1978年の作品で、現代を舞台に選挙活動をする男のお話。政治というものを痛烈に風刺している。ここでも複雑怪奇な言葉遊び的な表現が多用されている。
國語元年は1986年の作品で、近代(主に明治期)を舞台に全国共通語をつくり上げようとする役人とそれを取り巻く人々のお話。あらゆる方言が飛び交い、その方言の違いを認識していかなければ咀嚼しきれない。じっくりと、イントネーションの違いや意味の齟齬など吟味しながら読んでいくと、作品の中の喜怒哀楽を十二分に堪能できる。

ドラマ「國語元年」の記憶
子供のころNHKで言葉を題材にしたドラマを見たような…そんな曖昧な記憶がずっとつきまとっていたのだが、つい最近それが井上ひさしの「國語元年」だということが判明して、遠い漠然とした記憶を確固としたものにすべくその戯曲を読んでみた。
面白いドラマだったと記憶していたのだが、いざ文章と対峙してみると、これがなかなか手強いものだった。というのも、方言を文章にすると非常に分かりづらいからだ。自分の出身地東北の訛りであれば、多少なりとも容易にその表現やニュアンスも理解できるのだが、西へ南へ遠のくごとに理解しがたくなってくるし、ましてやイントネーションなどは文章だけで判断することなど不可能だった。この作品は読むよりも見ることが本来の姿なのかもしれない。
当時、NHKで放映されたドラマの配役を確認すると、川谷拓三、石田えり、ちあきなおみなどのビッグネームが─。内容もさることながら、役者の演技も素晴らしく、それ故に子供心に残っていたのだと再確認した。

▷ 変わりゆくことば
人びとにはマッサージが必要なのですよ。乗客のみなさんはどなたも会社でことば使いに神経をすりへらし、くたくたになって家路についておいでです。上役に言い過ぎたりしてはいけない、得意先を不愉快にしてはいけない、部下に対しては舐められぬよう、しかし威張っていると思われるように口をきかなくてはいけない。もうピリピリしながらことばを使って、どうやらこうやら一日を終えた。失言ひつとでクビの飛ぶ世の中、その世の中を今日も無事に切り抜けた。みなさんホッとしていらっしゃる。そこをおもしろおかしくさらにマッサージしてさしあげる。これが赤字国鉄のせめてものサービスである、そう信じてやっております。(国語事件殺人辞典より)
新たな国語辞典を編纂するという志を持って旅を続ける国語学者・花見万太郎が、旅先の駅で列車を待っているとなんともいいかげんな構内アナウンスが流れてきた。クレームを言う花見に対して駅長が上のように言い返す。そしてまた駅長が続ける─
ことばを発明したのは人間でしょうが。(略)
だとすれば人間がことばを使いこなす、それが本来でしょうが。
これに対し花見は─
(略)今や事情が逆転して、ことばが人間をこき使い、主人顔をしている。あなたはそうおっしゃりたいのだな。
そして駅長が再び答える─
(大きく頷き)ことばをおもしろおかしく使いこなして、ことばのやつに誰が主人か思い知らせてやらねば、と思っております。
自分こそが正しきことばを理解する者と思いこんでいた花見は、旅先で出会う自分が知らない“ことば”に感化され、ついには自ら持つことばが狂いはじめる。
しいぞ、おかしい! 配列がことばの狂っている! はぐちぐだ、ことばの形態的組立構造が……。だ、この症状は、言語不当配列症、噂に聞く。(頬を叩いて)アイウケコ(自分で自分に驚く。そこで気を鎮めて)いろはにほへとちりぬるOPQRSTUVW……(また仰天して)なに?! こまった。どうすればいい。この言語不当配列症は、ことばの病なのかでも難病中の難病として知られている、治療法はまだ発見されていない(トすらすらと言ってしまう)。あれ? 治った。(思わずほっとして)よかった。一時は思ったどうなることかと。(また仰天して)ええッ?
物語はこれ以降、この言語不当配列症やら句読点がめちゃめちゃになるベンケイ病とか、あるいは動詞とか形容詞に活用を持たせず「マス」「デス」「マセ」「コトガデキマスル」「マセン」「デセン」をつけるだけという規則の簡易日本語なるものが飛び交って、正直、読みづらい。しかし、文法がめちゃくちゃであるこの文章でも不思議と理解できて、しっかりと伝わってくるということが実に面白い。
言語や概念というものは確かに人間が生み出しものかもしれないけれども、ことばが使用され続けているうちにそれはどこまでも変化し続けていて、本当に制御が利かないものになっているのかもしれない。
ことばというものは、覚えるとか学ぶものなどではなく、伝達するため・思考するために、あくまでも使用するものだと今さらながら再認識してしまう。

▷ 國語元年の苦悩
全国統一話し言葉、この難題を追求した役人・南郷清之輔の物語として「國語元年」は書かれているけれども、内容は言葉の歴史を紐解くとかというものではなく、あくまでも言葉の面白さと難しさを表現しようとしているものだ。
長州弁、鹿児島弁、江戸山ノ手言葉、江戸下町方言、大阪河内弁、英語、南部遠野弁、名古屋弁、羽州米沢弁、京言葉、会津弁、それらの方言が飛び交う中、南郷清之輔はどうにかして日本全国六十余州すべての人に通じる言葉を作り出そうと試行錯誤を重ねていく。複雑怪奇な言葉、ひとつの事柄がこんなにも違う表現で…、それは一つにした方がいいに決まってる、容易に伝達も可能になることだろう、しかし、それは同時にあらゆるものを削いでいくことであり、そこに嘆き・哀愁・怒り・争い・諦め・エゴなどなど、様々な感情が生まれ、それを目の当たりにすると、言葉をコントロールすることがいかに難しいのかがよく分かる。
万人の使用する言葉を、個人の力で改革せんとするはもともと不可能事にて候わずや。……(略)……万人のものは万人の力を集めて改革するが最良の上策にて候わずや。そのためには一人一人が、己が言葉の質をいささかでも高めて行く他、手段は一切あるまじと思い居り候。己が言葉の質をいささかでも高めた他る日本人が千人寄り、万人集えば、やがてそこに理想の全国統一話し言葉が自然に誕生するは理の当然に御座候。(國語元年より)
日本語を作った人は誰なのか?そんな問いには答えがないようなもの。敢えて言うなら、こうして言葉を使っているすべての人間が言葉をつくりあげていると言えるだろう。これからも当然、変化していくことだろうし、今現在もっともらしく学んで身につけている文法なども、将来においては間違ったものになっている可能性だってある。ここに記している文章も、何十年後、何百年後、何千年何万年何億年後、正確に伝わっていくかどうかも分からない。でも、過去の言葉は現代においても残っていることを考えると、恐れることなく言葉を使っていけばいいのかもしれない。
ことばなんてものはな、べつに美しくなくたっていいんだ。正しく行儀よく喋らなくたっていいんだ。ただ各人が、それぞれの手持ちのことばで、ものごとをしどろもどろになりながらも必死になって、一所懸命に考えて、その結果がイエスと出たら正直にイエスと答える、ノーと出たら誰に遠慮もせずノーといえばいい。(国語事件殺人事典より)