2016年1月16日土曜日

國語元年

「國語元年(井上ひさし著)」を読みました

▢「國語元年」概要
Kindle版「國語元年」には、国語事件殺人辞典、花子さん、國語元年、3つの戯曲が収められている。
国語事件殺人辞典は1982年の作品で、現代を舞台に国語辞典の編纂を志す無名の学者のお話。不思議な題名が物語っているとおり、不思議な日本語が入り乱れ、少し読みづらい部分もあるけれども、普通ではないその言葉にはまると、非常に面白く感じる。
花子さんは1978年の作品で、現代を舞台に選挙活動をする男のお話。政治というものを痛烈に風刺している。ここでも複雑怪奇な言葉遊び的な表現が多用されている。
國語元年は1986年の作品で、近代(主に明治期)を舞台に全国共通語をつくり上げようとする役人とそれを取り巻く人々のお話。あらゆる方言が飛び交い、その方言の違いを認識していかなければ咀嚼しきれない。じっくりと、イントネーションの違いや意味の齟齬など吟味しながら読んでいくと、作品の中の喜怒哀楽を十二分に堪能できる。

ドラマ「國語元年」の記憶
子供のころNHKで言葉を題材にしたドラマを見たような…そんな曖昧な記憶がずっとつきまとっていたのだが、つい最近それが井上ひさしの「國語元年」だということが判明して、遠い漠然とした記憶を確固としたものにすべくその戯曲を読んでみた。
面白いドラマだったと記憶していたのだが、いざ文章と対峙してみると、これがなかなか手強いものだった。というのも、方言を文章にすると非常に分かりづらいからだ。自分の出身地東北の訛りであれば、多少なりとも容易にその表現やニュアンスも理解できるのだが、西へ南へ遠のくごとに理解しがたくなってくるし、ましてやイントネーションなどは文章だけで判断することなど不可能だった。この作品は読むよりも見ることが本来の姿なのかもしれない。
当時、NHKで放映されたドラマの配役を確認すると、川谷拓三、石田えり、ちあきなおみなどのビッグネームが─。内容もさることながら、役者の演技も素晴らしく、それ故に子供心に残っていたのだと再確認した。

▷ 変わりゆくことば
人びとにはマッサージが必要なのですよ。乗客のみなさんはどなたも会社でことば使いに神経をすりへらし、くたくたになって家路についておいでです。上役に言い過ぎたりしてはいけない、得意先を不愉快にしてはいけない、部下に対しては舐められぬよう、しかし威張っていると思われるように口をきかなくてはいけない。もうピリピリしながらことばを使って、どうやらこうやら一日を終えた。失言ひつとでクビの飛ぶ世の中、その世の中を今日も無事に切り抜けた。みなさんホッとしていらっしゃる。そこをおもしろおかしくさらにマッサージしてさしあげる。これが赤字国鉄のせめてものサービスである、そう信じてやっております。(国語事件殺人辞典より)
新たな国語辞典を編纂するという志を持って旅を続ける国語学者・花見万太郎が、旅先の駅で列車を待っているとなんともいいかげんな構内アナウンスが流れてきた。クレームを言う花見に対して駅長が上のように言い返す。そしてまた駅長が続ける─
ことばを発明したのは人間でしょうが。(略)
だとすれば人間がことばを使いこなす、それが本来でしょうが。
これに対し花見は─
(略)今や事情が逆転して、ことばが人間をこき使い、主人顔をしている。あなたはそうおっしゃりたいのだな。
そして駅長が再び答える─
(大きく頷き)ことばをおもしろおかしく使いこなして、ことばのやつに誰が主人か思い知らせてやらねば、と思っております。
自分こそが正しきことばを理解する者と思いこんでいた花見は、旅先で出会う自分が知らない“ことば”に感化され、ついには自ら持つことばが狂いはじめる。
しいぞ、おかしい! 配列がことばの狂っている! はぐちぐだ、ことばの形態的組立構造が……。だ、この症状は、言語不当配列症、噂に聞く。(頬を叩いて)アイウケコ(自分で自分に驚く。そこで気を鎮めて)いろはにほへとちりぬるOPQRSTUVW……(また仰天して)なに?! こまった。どうすればいい。この言語不当配列症は、ことばの病なのかでも難病中の難病として知られている、治療法はまだ発見されていない(トすらすらと言ってしまう)。あれ? 治った。(思わずほっとして)よかった。一時は思ったどうなることかと。(また仰天して)ええッ?
物語はこれ以降、この言語不当配列症やら句読点がめちゃめちゃになるベンケイ病とか、あるいは動詞とか形容詞に活用を持たせず「マス」「デス」「マセ」「コトガデキマスル」「マセン」「デセン」をつけるだけという規則の簡易日本語なるものが飛び交って、正直、読みづらい。しかし、文法がめちゃくちゃであるこの文章でも不思議と理解できて、しっかりと伝わってくるということが実に面白い。
言語や概念というものは確かに人間が生み出しものかもしれないけれども、ことばが使用され続けているうちにそれはどこまでも変化し続けていて、本当に制御が利かないものになっているのかもしれない。
ことばというものは、覚えるとか学ぶものなどではなく、伝達するため・思考するために、あくまでも使用するものだと今さらながら再認識してしまう。

▷ 國語元年の苦悩
全国統一話し言葉、この難題を追求した役人・南郷清之輔の物語として「國語元年」は書かれているけれども、内容は言葉の歴史を紐解くとかというものではなく、あくまでも言葉の面白さと難しさを表現しようとしているものだ。
長州弁、鹿児島弁、江戸山ノ手言葉、江戸下町方言、大阪河内弁、英語、南部遠野弁、名古屋弁、羽州米沢弁、京言葉、会津弁、それらの方言が飛び交う中、南郷清之輔はどうにかして日本全国六十余州すべての人に通じる言葉を作り出そうと試行錯誤を重ねていく。複雑怪奇な言葉、ひとつの事柄がこんなにも違う表現で…、それは一つにした方がいいに決まってる、容易に伝達も可能になることだろう、しかし、それは同時にあらゆるものを削いでいくことであり、そこに嘆き・哀愁・怒り・争い・諦め・エゴなどなど、様々な感情が生まれ、それを目の当たりにすると、言葉をコントロールすることがいかに難しいのかがよく分かる。
万人の使用する言葉を、個人の力で改革せんとするはもともと不可能事にて候わずや。……(略)……万人のものは万人の力を集めて改革するが最良の上策にて候わずや。そのためには一人一人が、己が言葉の質をいささかでも高めて行く他、手段は一切あるまじと思い居り候。己が言葉の質をいささかでも高めた他る日本人が千人寄り、万人集えば、やがてそこに理想の全国統一話し言葉が自然に誕生するは理の当然に御座候。(國語元年より)
日本語を作った人は誰なのか?そんな問いには答えがないようなもの。敢えて言うなら、こうして言葉を使っているすべての人間が言葉をつくりあげていると言えるだろう。これからも当然、変化していくことだろうし、今現在もっともらしく学んで身につけている文法なども、将来においては間違ったものになっている可能性だってある。ここに記している文章も、何十年後、何百年後、何千年何万年何億年後、正確に伝わっていくかどうかも分からない。でも、過去の言葉は現代においても残っていることを考えると、恐れることなく言葉を使っていけばいいのかもしれない。
ことばなんてものはな、べつに美しくなくたっていいんだ。正しく行儀よく喋らなくたっていいんだ。ただ各人が、それぞれの手持ちのことばで、ものごとをしどろもどろになりながらも必死になって、一所懸命に考えて、その結果がイエスと出たら正直にイエスと答える、ノーと出たら誰に遠慮もせずノーといえばいい。(国語事件殺人事典より)


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