▢ マイナー音楽のために―大里俊晴著作集
2009年11月17日に51歳で夭折した、音楽学者・ミュージシャンの大里俊晴が遺した著作などを一冊に纏めたもの。
雑誌、書籍、ウェブ、ライナーノートなどの媒体から、原稿用紙にして1200枚強。その他、インタビュー、対談、なども含まれる。
内容は、現代音楽やフリージャズを中心とした音楽論が展開される。それに加えて、文学や漫画などの評論などもある。
2010年11月17日に初版が有限会社月曜社から出版される。
▢ 大里俊晴について
1958年2月5日新潟生まれ。音楽学者・ロックミュージシャン。
70年代後半─80年代前半には「ガセネタ」「タコ」などのバンド活動をおこなう。早稲田大学文学部を卒業後、87─93年、パリ第八大学にてダニエル・シャルルの元で音楽美学を学ぶ。帰国後、音楽評論、ラジオ番組出演などを行う。著書に『ガセネタの荒野』(洋泉社)。音楽批評家・間章に関するドキュメンタリー『AA』(監督:青山真治)にインタビュアーとして出演。2009年11月17日永眠。享年51歳。
※「マイナー音楽のために」より
▷「マイナー音楽のために」との出会い
渋谷のタワレコであてどなく物色している最中、“大里俊晴”という文字が目に入った。ちょっとした懐かしさを覚え、その名が載る本を何となしに取ってみる。内容と値段ともに、かなりのボリュームで、抵抗を感じるが、“逝去”という言葉により、手放せないものとなってしまう。
大学で音楽概論なる授業を受けたのはそんな前でもないはずだが…、ほとんどサボってばかりいたなぁ…、流れる音楽も耳慣れなかったし…、いっちゃったんだ…早過ぎる…。
半ば郷愁なる思いで手に入れた本ではあったが、いざ読み始めてみると、相当の手強さ。究極のマイナーともいうべきものがそこにはあり、知識が全く追いついていかないのである。ふと、「出席しなくても論文出せば単位はあげる、でもよほどじゃない限りいい成績はあげないよ」といった趣旨のことを発言していた大里先生の姿を思い出す。その言葉に甘え、全く授業に出なかった自分を今さらながらに悔やんでしまうのだが…。音楽に確固たる厳格な信念を持っている人なのだと再認識しながら、静かに本を棚に置く。情けない話ではあるが、それからその状態が数年間続くことになる。
▷ 覚悟を決めて対峙する
PRIVATE CHART 10
阿部薫『なしくずしの死』(78)
アントナン・アルトー “Pour En Finir Avec Le Jugement De Dieu”(71)
イアニス・クセナキス “Persépolis”(71)
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド “The Velvet Underground(3rd)”(69)
コレット・マニー “visage-village”(75)
ジャックス “Live, 68. 7. 24”(73)
ティム・バックレー “Happy/Sad”(69)
パティ・ウォーターズ “Sings”(66)
ブルー・チアー “Vincebus Eruptum”(68)
空席
『STUDIO VOICE』1997年8月号
「特集=GREATEST RECORDS SV特集(永遠の名盤)ガイド」より
冒頭、自らの恥部を晒すかの如き嘆きの文章とともに、著者厳選の10枚ならぬ9枚が提示されて、出口の見えない長い旅が始まる。
確かに、かなり特異な選択だと思う。しかし、全く知らないわけでもないし、ジャズやら現代音楽やらロック、シャンソン、ポップ等々、非常にバラス良く並んでいるように思ってしまうのだが、恐らくそう思われることも赤面の極みなのだろう。
著者は、何でこんな苦しみ・辱めを受けなければならないのかという罵りと共に絞り出されている。空席を設けているのも、10などと限定することなどできないという、著者の正直な思いが込められているわけだ。
この本の最後に細野晴臣が解説として書いている─
これは毎月どこかでやっている平凡な企画で、普通の回答者は記憶の気楽なおさらいをしながら、正直に(読者を喜ばせたり、驚かせる目論見も多少持って)答える。考え込む必要はない。1年後に違う10枚を挙げても誰も咎めない。回答が刻々(雑誌に応じて)変わるのはむしろ自然だ。ところが大里はPRIVATEの語を誇大に解釈し、「誰にも見せたことのない、一番隠しておきたい、最も大切な場所」を総てさらけ出す要求と曲解する。アンケートを性器のように隠しておくべき絶対的羞恥の調書とみなす。まさしく音楽に対してどれだけ真面目なのかとツッコミたくなるくらいだ。しかし、本を読み進めるうちに、冒頭の提示は本当に真摯に吐露したものだったということが実感されてくる。著者は音楽の嗜好についてこうこう答える─
音楽が好きだなといったときに、頭でとらえるものとマインドでとらえるところの両方がある気がして。つまり、思考と感情のすべてをむき出しにされてしまったわけだ。
フランスの留学経験をもつ著者は、音楽への言及がかなりフランスよりとなっている。そして、その象徴ともいえる存在がコレット・マニーであろう。
ジャンルの限定なしに、20世紀最大の歌手、あるいはやや控えめに言っても、20世紀最大の歌手の内の一人、と呼ぶのがふさわしい
そう語り、コレット・マニー「ヴィザージュ─ヴィラージュ」(75年)を挙げて
何度でも言おう。このアルバムこそは、他の何千枚とも決して取り替えのきかぬ、常に新たに認識され直さなければならないモニュメンタルなディスクなのだと。と断言している。
このコレット・マニーなる故人はいまだその評価は小さい。恐らく本国フランスでもそれほど大きく取り上げられる存在ではないと想像する。それでも彼女の偉業を主張し続けた理由は、その音楽だけが知っている─ということで、コレット・マニー「ヴィザージュ─ヴィラージュVisage-village」を聴いてみる
以降、登場してくるフランスからの刺客たち─
ジェラール・マンセ(Gerard Manset)
アントワーヌ・トメ(Antoine Tomé)「Éternité」
ルイス・クラヴィス(Louis Sclavis)「Ad Augusta Per Angusta」
ジャン=フランソワ・ポーヴロス(Jean-François Pauvros)「ル・グラン・ダムール( Le Grand Amour)」
「ゴダール・サ・ヴ・シャント?(Godard Ça Vous Chante? )」
小難しいエクリチュールよりも音楽なのだからまずは聴くこと。そうすれば必ず大きく視野が開かれる。それがたとえ渺漠たる野へと放たれることになろうとも、決して恐れず、自ら道を切り開こう、この分厚い本を道標として─…
▷ マイナー音楽の今むかし
私の気を重くしているのは、この原稿の性格上、廃盤になっているレコードに言及することを余儀なくされている、ということだ。今日フランス本国ですら普通には入手しがたいアルバムを紹介するというのは、あこぎな中古レコード屋の相場をつり上げることに奉仕する意外に、なんのメリットがあるというのか。勿論、ある紹介文を読んで興味を持った音楽を聴きたいという欲望は肯定されて良い。しかし、その実現のために法外な値段を支払わねばならないのだったら、その欲望を喚起すること自体問題がある行為なのではないか。そもそも、いかなる代償を支払っても入手する価値のあるレコードなどそうそうあるものではない。著者がこのように記す理由がよく分かる。恐らく、著者自身も高尚な文章を読んで、中身を全く知らない音楽を貪り、そうやって暴利を貪られた側なのだろう。
昔、自分も某CDショップで透明な袋に入ったフリージャズについての本を数万円で売られていたのを目にし、心を動かされた記憶がある。その時は思いとどまった。しかし、それが果たして正しかったのかどうか、読んでみないと分からない。それを確かめるために数万なんて…。でも、その時は冷静であっても、他の場面では心の赴くままになけなしの金をはたいた時は何度もあった。
廃盤へのプレミアというかたちでなくても、そもそも供給能力が弱いというのがマイナー音楽の特徴であり、それ故、新品でも各々それなりに値が張っていたものだ。中身も分からないままにクジ引きのごとく、ドキドキしながらそれを開ける。
著者に言わせるとそれは愛しき“躓きの石”たち─
例えば、70年代の半ば、雪深い田舎から生き馬の目を抜く魔都東京へとやってきた、なんも知らんウブな予備校生がいたとしよう。「なんか、オレもうこう、都会的っちゃうか、センレンされたっちうかよ、ふっ、その手の音に浸ってみたいもんよなあ。クニじゃヨシオが、これからはフージョンよ、とかっつーって、チック・コレアだかなんだか、さんざん聴かされたもんな。ま、クソ面白くもなんともなかったけどよ。ともかくECMってレーベルなら間違いねえらしいからよ、ここはひとつ」などと呟きながら、その彼が、偶々『チョロとギターのための即興曲』を手にしてしまったと想定されたい。多分、デレク・ベイリーという名前が、この間始めて入ったジャズ喫茶とやらで粋がってふんふん言いながら読んだジャズ雑誌に、竹田某だの間某だのといったやたら高踏的なヒューロンカが、小難しい単語てんこ盛りにしている中で、ちらっと出てきた固有名詞だったような気がしたのが、彼の知的劣等感にまみれた暗い部分を煽ったのかもしれない。ともあれ、彼はそれを買って家に帰り、針を落とすと、こう叫ぶことになる。著者が書く思い出話(?)に共振する自分がいる。ドゥルーズ=ガタリが言う「偉大で、革命的なのはマイナーなものだけである」という金言を胸に秘め、ベイリー、ジョン・ゾーンらのフリージャズや、理解もできるはずもない現代音楽などに挑んでいた。
「ウヒャア、おったまげたあ。トーキョーには飛んでもねえもんが売ってるんだなあ。最初から最後までコリコリいってるだけでねえか……」。しかし、彼には自分の選択を失敗だと決めつける勇気はない。彼は東北人特有の粘り強さで、そのコリコリを何度も聴き返す。そしていつしか、そのコリコリに特別な親しみを感じている自分に気づくのだ……。
それらは、壊すものであり、再構築してくれるものであり、新しいものであった。色んな感覚が壊される、それは同時に、新たな見方を提示してくれる。
小杉武久のことを著者が評するその文章にも、その辺の感覚が述べられている─
“聴くこと”からの想像が彼の音楽を考えるときのキーポイントだろう。その意味で、この本には載っていないが、われわれには忘れがたいテクストがある。かつて小杉はルー・リードの、あのあまりに誤解された『メタル・マシン・ミュージック』の国内盤ライナー・ノートに、きわめて興味深いインストラクションを沿えたことがあった。それは要するに、そのアルバムを使ったいくつかの聴き方の遊びというようなものだったのだが、特に、「耳を手で塞いだり開けたりして音の変化を楽しむこと」という指示は、彼自身の作品(彼の作品は行為の指示だけ、というものが多い)そのものである。しかし考えてみれば、それはそのアルバムに入っている音楽をありのままに聴くなという指示であったわけで、いったいレコード始まって以来この人以外の誰が、ライナーにおいてそのライナーが付された当の音楽を「ちゃんと聴くな」などと言っただろうか。そのような不敬を冒してまでに(じるは、まさにそれはルー・リードが参照したラ・モンテ・ヤングの方法論に準拠した“ちゃんとした”聴き方なのだが……)、小杉は日常の行為である“聴くこと”を意識に上らせようとした。そのことによって、意識の僅かな、しかし深遠な変容を企んでいたのである。このようなもっともらしい文章を読むと、なぜか非常に励まされる思いがする、あなたが聴いたマイナー音楽は決して無駄なものではなかったのだと。
このような著者による地道な啓発活動のおかげなのかどうかは知らないが、再販やデジタルデータとして埋もれつつあったものが徐々に世に出つつあるように思う。しかも、ネットワークが発達した今は、検索ひとつですぐに手の届かなかった音源を聴くことができるのだから便利な世の中になったものである。
▷ 現代音楽の意味
ある現代音楽事典を引いてみよう。「ミュージック・コンクレート」の項には、次のような定義が読まれる。「ミュージック・コンクレートは、その呼び名を、それが追求する美学的な目的ではなく、実際に使用された、一般的な具体音という起源に負っている。(中略)ミュージック・コンクレートはその第一段階として、具体的な音や雑音の録音(伝統音楽の楽器から借りてきた音、また、モーター、飛行機の急降下、シャンパンの栓、ハンマーやつるはし等々といった生活の中の音)から得られた音による新しいヴォキャブラリーを確立する」。正直、ミュージック・コンクレートがどういうものであるのか正確には分かっていなかったものの、この示唆と以降に続く解説に大いに納得させられる。
なるほど、そうではないか、と人は思うかも知れない。なにかこの記述に問題があるのだろうか。だが、ミュージック・コンクレートの重要性の再認識を促す論文「ミュージック・コンクレートの存在論」で作曲家のミシェル・シオンの指摘するところによれば、これらの“生活の中の音”の例に関して、この記述は完璧に出鱈目なのである。「どのようなコンクレートの作品も、これらの音を使ったことはない」と彼は断言する。
そしてそこから、現代音楽とロックはどのようにしてかかわり合うことができるのかということを論じていく─
ロックという文脈で語られる以上、未来などない。なんとなれば、ロックとはその生誕の瞬間に終わっていたのであるから、そもそも歴史的発展などないのだ。すなわち、ロックに未来はないとしつつも、それは現代音楽を肥やしにしながらどこまでも突き進んでいくことを示唆している。だから、現代音楽の推移とともにロックも変化するのだろう、決して進化することなく。
それ故に現代音楽の重要性も一層高まるというわけで、著者は21世紀に残すアルバム10枚を挙げている。冒頭に挙げたPRIVAT 10とは違って、これは頭だけでとらえられた10枚であり、あまり面白いとはいえないかも─
ジョン・ケージ「ヴァリエイションズⅡ」
ジョージ・クラム「ブラック・エンジェルス」
フィリップ・ドゥロゴス「アグレッシオン」
リュック・フェラーリ「ブレスク・リアン・ナンバー1/ソシエテⅡ」
ペール・アンリ「ミーズ・アン・ミュジーク・デュ・コルチカラール」
マウリシオ・カゲール「エキゾチカ」
コンロン・ナンカロウ「スタディーズ・フォー・プレイヤー・ピアノ」
カールハインツ・シュトックハウゼン「Spiral für Blockflöte und Kurzwellen」
イアニス・クセナキス「ペルセポリス」
ラ・モンテ・ヤング「23 VIII 64 2:50:45-3:11 AM the volga delta」
そして、これら現代音楽の役割の一例を挙げる─
我々の中に、たかだかこの200年ほどの間に形成されたロマン主義的音楽観による正しい音楽の在り方が、意外と根強くすり込まれてしまっている(略)その在り方とは、すなわち、しわぶきひとつ聞こえないコンサート・ホールで、演奏家が超絶的な名人芸を披露し、その演奏によって楽譜から忠実に賦活された作曲家の理念が、聴衆にあまねく伝わりうるという、ほとんど幻想に近いものである。そこには、音楽の形成、伝達過程で起きうるはずの、あらゆる情報の偏差、不確定性、ノイズの混入といったものが完全に無視されている。実際はそんなことなど決してあり得ないのだが。現代音楽を果たしてマイナー音楽と呼んでいいのかどうか疑問なところだが、それが実際に流れる場は明らかに少ない。しかし、それが音楽全体に果たす役割というのは、想像を絶するほどに大きいものなのだろう。
ちなみに、ここで、ある音楽が作られ、我々の耳に届くまでに、どれだけのプロセスを経るかを考えてみよう。おおざっぱに図式化すれば以下のようになるだろう。
作曲家─楽譜─演奏家─音響─聴衆者
このプロセスの中で、どれほどの情報のロスがあるか、少し想像してみただけで、音楽家の理念が音楽を通して聴衆者に十全に伝わる、などという旧来の考え(というより意識にも上らぬ不文律なのだが)は、ほとんど絶望的であるように思えてくるのではなかろうか。
▷ 興味深い提示
二重音唱法に限らず、倍音が特徴となる唱法は、先ず、その倍音を発すること、およびそれを聴くことで、身体に直接的な快が得られる
反響効果が耳に与える快感は、あえて歴史を遡らなくとも、我々自身、日々体験していることである。声をテーマにした記述が、本の中盤で展開されている。上記にあるのは、ホーミーなど二重音唱法が何故に世界各地で存在しうるのかとうことを紐解いているもの。
声と音楽との結びつきを深く追求しているその記述が、非常に面白く、しかも、声を武器に活動している、例えば、デヴィッド・ハイクス(David Hykes)などのアーティストのことを紹介してくれている。ハイクスを「技術的な面では、ハイクスは、恐らく世界で最も高度なテクニックを身に付けているだろう。」と称す。そして、それを聴くと実に興味深いもの。音楽の領域は何と広いことか─。
美術を評した次の文などにも共感する。
“平和と自由”のために、ハンマーで音をぶち壊すヨーコ。最も笑ってしまったのは、作詞講座“あなたもゲンスブールになれる”というコラム。ゲンスブールの歌詞を分析した上で、それらしい歌詞を簡易的に作ってしまおうという面白企画。文の語り口も、出来上がった簡易歌詞も面白すぎて、音楽に対する偏愛を感じとることができる。
このように、私には、今でも、ヨーコの身体性の過剰さが、その言葉や論理をはるかに乗り越えているように思える。そして、その瞬間に立ち会うとき、我々は決まって、名状不可能な、鳥肌のような快感を手に入れることになるのだ。
そして、モンド・ミュージックなるものへの苦言として次のように語っている─
いったいある作品の“正しい解釈”というのがあり得るのか、という問題(略)誤読の可能性は、読解の可能性そのものに属するものであり、それを消去することは不可能だ。だが、少なくとも、ある作者の狙った意図というものを、その時代、その文化的条件に於いては、それがどういう意味を担っていたか理解しようとしつつ、同時にそれを超えてメタ的に面白がる、という二つの視点を持つ姿勢は、やはり必要なのではないだろうか。そのことを全ての“モンド・ミュージック”愛好家が実践しているとは、必ずしも思えない節があるのだが……。音楽はこうあらねばならないとか、こう聴かねばならないという定義などがあるわけもない。自由に楽しめばいい。しかし、それを愛するというのであれば、もっと深く掘り下げて嗜好せよ、とまぁ厳しい暗示。
このほかにも、数多くの論文が並んでいる。あまりの量と質に辟易してしまうかもしれないが、それ故に得るものも多い。しかも、提示された音楽も楽しめるため、まさに一石二鳥。ただし、大里俊晴という音楽学者と真摯に向き合う覚悟が必要だ。