▢ 音楽のピクニック
著者の小杉武久(1938年3月24日生)は東京出身、東京芸術大学音楽学部楽理科を卒業。フルクサスに参加し、マース・カニングハム舞踏団とも共演。タージ・マハル旅行団を結成し、後にマース・カニングハム舞踏団の常任音楽家として活動する。
エレクトリックなども積極的に用いて、即興演奏を中心に、マルチメディア音楽の作曲/演奏家として活躍する。
「音のピクニック」は1970年から1990年までに、小杉武久が雑誌やライナーノーツに出稿した著作物、あるいはインタビュー記事などを集約しまとめ上げたもの。
自身の音楽活動の経験が述べられているともに、音楽に対する姿勢や考え方が明示されている。
1991年8月10日に『書肆風の薔薇』から発行されたもので、かなり時代が経っていが、序文にはナム・ジュン・パイクの言葉が寄せられ、中身においては、コーネリアス・カーデューとのインタビューや阿部薫との経験譚などが載っており、前衛音楽を嗜好する者にとっては興味が尽きないことだろう。
▷ 小杉武久の演奏
2008年の横浜トリエンナーレで小杉武久の演奏を体験する。
素材になるものをいくつか選び、それらを組み合わせて、サウンド・システム、つまり発振器やエフェクターを色々つなぎ合わせたシステムをつくりあげ、それを用いて演奏します。その時は単独での演奏。本にあるとおりエフェクターをつなぎ合わせ、即興的に音を出し引きしていたような印象だった。
私が考えている即興演奏はインド音楽やジャズのような形式性をもったものと違って、かなり不定型なもので、普通の音組織から大分外れたところからアプローチしています。例えば、私のよく使うヴァイオリン、これでメロディを弾くとすると、その時、私はメロディを「音のオブジェ」として演奏するのです。つまり不規則性をシステムにした複合音として……。そうすることで、全く予期しなかった音を楽器で作り出すことが出来ます。音楽活動を始めたばかりの頃、私は数人の友人と一緒に非常に自由な即興演奏を行なっていました。その頃考えていた事は、音楽を自動的なつまりオートマティズムの手法で演奏することでした。ちょうど、ジャクソン・ポロックの「アクション・ペインティング」のように……。静かに登場した小杉武久は、静かに椅子に座り、何かつまみを動かしてゆっくりと音を出し始め、ノイズとも単一音ともいえない持続的なサウンドを奏で、静かにその音を消していき、静かに演奏を終えて、ほとんど説明もないままに、恥ずかしそうに消えていった。
音楽の演奏が単に音を目的としたものから離れて、アクションそのものになってゆくということもあります。(略)ギターにひもをくくりつけて、ギターそのものを動かして音を出すという小杉武久の作品「テンダー・ミュージック」の説明などを読むと、自分が体験しものとはずいぶん趣向が違うと感じてしまう。ただ、いずれの“作品”も聴いただけではつまらないことは明白だ。
音中心の音楽ではなくて、行為自体が演奏なのです。ダンスではないにしても、アクションや演奏者の動きに興味がゆけば、音を聞くと同時に物の動き方も観賞出来るはずです。音だけではなくアクション中心でもない、音とアクションが統合されたパフォーマンスです。
小杉武久にとって作曲とは即興演奏であり、即興演奏こそが作曲であったようだ。
協奏曲の「カデンツァ」の部分などのように、その独奏者に自立的な即興演奏の場が与えられている場合があったとしても、演奏家の名人芸的な技巧を売り物にする「曲芸」的なものになり、本来の音たちの持つ自発的な<動き>の場ではなくなった。音楽はそのようにして、演奏者の曲芸的なスポーツになったり、あるいは作曲の構築物=「凍れる音」をいかに正確に支えていくかという職人芸をかかえこむようになる。そもそも、音楽に対する考え方が根本的に違う。単に、音を聴いたり聴かせたりすることだけが音楽ではないと主張する。
(略)対照的に、ジャズとかインド音楽は、音を<通常に変容するもの>として捉え、即興演奏の形式に音楽の在り方をおいている。メロディ・ラインはよく動き、リズムはよく揺れ、音は前もって予定されることが出来ない自由な羽撃きを持つようだ。これは「凍れる音楽」とは対照的に「燃える音楽」とでもいったら良いだろう。
どんな音楽を作ろうか聴かせようかということよりも、どういったやり方で音を構築させようかということに興味を持っているようだ。
かつて私の友人K氏がこんなことを提案したものだ、即ち<地球の音を聞くこと>。
狩人の弓の「ビューン」がハープの「ポロン」になり、はてはヴァイオリンやピアノの音に変貌する。そして、音を様々な角度から捉えて、聴覚だけが音を捉えたり生み出したりするものではないということを主張する。
今、音ではない周波数の非常に高い二つの<波>があるとする。たとえば、毎秒91万回と91万2千回で振動する波、これらは電磁波であり、それ自体決して音として聴覚にひびくことはない。ところで、この二つの波がある電子回路の中でミックされると両者の間に干渉が起こり、この場合、その差として2千ヘルツの新しい波を産み、これは可聴帯域の波であるから、そのまま電気的に増幅しスピーカーから取り出せば、空気を動かし、音としてわれわれの聴覚にキャッチされることになる。これは一般には<ヘテロダイン>といわれる現象だが、耳には聞こえない(沈黙の)波がそれぞれの干渉の結果、第三の波としての音を産むということが、知覚にとっては、現象の異化としての楽しみを期待させる。この現象をプロセス化してとらえることにより、たとえば音楽と名づけられる現象の装置ができ上がる。
インド音楽の形而上学的な理念によれば、伝統的に、音楽(サンギータ)は全宇宙としてのエンバイラメントの中に遍在する超越的な波動であり、音楽家は一種のアンテナと同調回路とを持つ受信器であり、自我の音楽を表現するというよりも、むしろ超越的な波動をとらえる媒体としてある、と考えられている。半ば五感で音を捉えて、それを組み合わせながら形にしていく、インターメディアなるものを提示する。
聾人は音に触れ、みつめ、それを聞く。
盲人は風景を聞き、嗅ぎ、それを見る。
ヘテロダインの現象において、異なった高周波の、耳に聞こえない二つの波動が第三の波として音波を産むように、波動の干渉のかたちは多様である。光すら音にならないものだろか? 今、ゆっくりと光量を変える光をある受光素子がキャッチし、その情報をこのゆっくりした超低周波のうねりに作用させると、うねりは光のゆっくりした変化につれて次第にその速度を変えてゆく。陽のかげりがうねりの速度をゆるめ、日差しがうねりを波立てる。ここでは、その波乗り演奏はさらに変容する光の波の干渉を受け、知覚は音として立ち現れている光の波に気づく。この複合的な媒体=波の相互作用の中に知覚が在るとき、知覚は、現象のトータルな顔が音という形をまとって現れている、ということを知る。だから音は現象のひとつの装置なのである。
「エンバイラメントは不可視的である」(マクルーハン)ということは、現象における知覚の持つパラドックスに由来している。見えるものは視えないのだ。だから見えるものは聴いて見る、触って見る、嗅いで見る。インターメディア的思考が有効なのは、ここにおいてである。不可視的であり不可聴的でもある現象の複合的な装置。波動を聴覚に与えるならば、同時に視覚にも与えること。▷ 小杉武久を取り巻く音楽
自分はながらで読書をする癖が身についてしまっていて、ひどいときはテレビを見ながら本を読んでいる。まぁそういうときは大概どちらもよく頭に入ってこないのだが…
この本を読んでいるときも、昔録画したコンサート映像を流していた。バーンスタイン指揮するマーラー交響曲第5番第2楽章の映像が流れ出した頃に、本の方はというと、ちょうどフルクサスのイベントでジョージ・ブレクトが披露した「ドリップ・ミュージック」と題した作品の注釈あたりを彷徨っていた。
一枚のカードに文字で、「滴り音楽。単独または複数のパフォーマンス。水の滴りのための水源と、ひとつの容器が用意されていて、水がその容器に落ちる」と記されている。
魅力的なその表記にたまらず Youtube を探るべくスマホにも手が伸びる。まさにインターメディアか─…我ながら陳腐…
この作品を見つつ聴きつつ、さらにマーラーを聴きながら見る。すると、言い知れず混沌としたエクスタシーみたいなものを感じてしまう。
まだまだ日常の音を純粋に楽しみ喜びを感じ切れていない未熟な自分ではあるけれども、凍結されてしまった音楽だけに縛られている感覚から、多少介抱されたような喜びを感じた。とまぁ回りくどい表現にするまでもなく、純粋に互いの音のぶつかり合いが面白かっただけなのだが─。
小杉武久が刺激を受けたであろう音楽たちも当然ながら紹介されている。そこには、「影響を受けた」と簡単には書かれてはいないけれども、読んでいて他の箇所とは明らかに異なった面白さを感じるわけで、好きなんだなぁというニュアンスが伝わってくる。
鳥が石を通過する小杉武久が奏でる音楽は、決してチャーリー・パーカーとは相容れないものだとは思うが、バードが飛び回った即興音楽が半ば小杉武久を形づくっているのだと想像すると、なかなか面白いものがある。
─チャーリー・パーカー暗喩(メタモルフォーゼ)考
即興の音楽=ジャズなどは飛行する音楽である。それは、あらかじめ決められたレールや道路の上をきめられた速度でしか走りえない二次元空間の音楽ではなく、空中を飛翔する音楽である。空間は四方八方に広がり、だから次元がひとつ多いこの三次元に飛行する音楽の旅(プロセス)はより多様であるかもしれない。音楽家=インプロヴァイザーはだから「鳥」であり、時には気流に乗って気ままに流され、時には気流にさからい、雲=やわらかい石を通過する。色んな「鳥」が居て、色んな飛び方をする、色んな時代に、色んな国に。鳥の居ない国、鳥の居る国、鳥の飛べない場所、鳥の飛べる場所。飛ぶのをやめた鳥、石にぶつかって死んだ鳥。……鳥になった馬。……翼を持った機関車。……石を通過する鳥……
そんな「鳥」たちの中で、チャーリー・パーカーはとりわけその素早さとしなやかな飛び方で目立った存在であった。「ビ・バップ」という飛び方のスタイルもそれまでの「低空飛行」と違って、その高度と飛行範囲をぐっと広げているところが、なんともいいのである。人々はその飛び方に魅惑され、他の「鳥」たちもその飛び方を真似ようとした。
小杉武久とは音楽性や好みが必ずしも合わないようなミュージシャンたちも登場してくる。明らかに水と油といった感じがするけれども、その反発し合う姿も、傍目から見ると非常に面白い、申し訳ないけど─。
特にコーネリアス・カーデューとの対話が面白くて仕方がなかった。
カーデュー 社会革命なしに音楽革命はできません。まず社会革命がおこってから、文化や政治のような上部構造がその結果変革される、ということです。しかし、最初は経済領域であり、そこをめざして工作する必要がある。一方、音楽の革命については、われわれが音楽において革命的とみなしてきたものはいつも、ただ前にあったものとちがうだけで、どんな方向とか、どのようにちがうとかということは問題にされなかった。われわれはいつも形式面でのちがいを開拓しようとし、聴衆との関係におけるちがいは問題にしなかった。だから、19世紀には19世紀の音楽をたのしむ特定の聴衆がいたのとちょうどおなじように、前衛音楽には前衛音楽をたのしむ特定の聴衆がいる──階級的状況がかぎられていることは以前と同じです。しかし音楽の革命は──われわれにはそれがどのようにおこるかはわからないが──、しかし今思うには、ケージがやったと言っているようなたぐいの革命はたいへん小さく、重要でない革命であり、事実、19世紀音楽の鑑賞に有効なことがケージの音楽の鑑賞にも有効なのです。わずかな変化はある。社会組織におこった程度のね。たとえば19世紀には、みんながロマンチックな恋愛とか、そんなことだった。今ケージの音楽では、すべてがテクノロジーの新しさとか、まったくでたらめな現象であるような環境なのです。こんなことは流行で──つまりこれが社会の達した段階なのです。19世紀にはロマンチックな恋愛、今はこれ、ところがそれはおなじ社会が発展しているだけなのです。われわれは現在望む変化は、その社会の一部ではない。おなじ方向に続けるのではなく、社会主義社会へむかって方向を変えることです。
小杉 日本には<音の楽しみ>ということがあります。音楽ということばは、音のよろこびという意味で、だからバリ島の音楽や、インドの音楽に耳をかたむけるのは、その楽しみであり……。70年代まさに東西冷戦真っ只中といった印象がする。といってもカーデューはイギリス出身なのに、何でこんなにも左よりなんだろうと思ってしまう。毛沢東を引き合いに出して語っていたからなー。
カーデュー 外国へいって、遠いところの現象として見るのは、楽しみかもしれない。しかし、純粋な音のよろこびなどというものはないと思います。
そして、日本のカリスマ阿部薫との共演した日の記述もある。
アベ・カオルとの記憶なんだか情景が浮かぶような浮かばないような…まさに情熱と冷静の間か─。
─1971年の夏─そしてその時も私は「ひとり」であった。阿部はひとりで遊んでいたし、私もその傍らでひとりでやっていた。それは音と音で合奏し合うという定型をはなれていた。そういったフリー・ミュージックであった。
そして最後は日本の作曲家、高橋悠治との対話で締めくくられる。
そこにはフルクサスから1990年現在に至るまでの活動姿勢が刻々と語られているわけで、これを読めば、まさに小杉武久の音楽に対する姿勢がハッキリと掴み取ることができるはずだ。
作品という場合、やっぱりそれは音楽の段階なんだよ。前からぼくはそうなんだけど、アンチ・ミュージックという立場で活動した。つまり反芸術的な立場、芸術自体に対する疑問と言うべきかな。だからアノニマスな音がどうこうということ以上に、音楽ということ自体すらもそこに持ってゆきたいと思うことはある。(略)音楽すら無目的な、アノニムな方へ持っていきたいというようなところがあるんだ。それが結局パフォーマンス、アクションを含めたようなものになっていく。だけど、今度はそれが芸術のモデルになり、そこからまた逃れたいという自分の意識が働いてくる。大本のところで一つの反芸術的な方法を求めるんだね。
フルクサスはぼくにとって60年代の状況なんだよ。ネオ・ダダの動きとかもあったけど、それがやっぱりアートの制度になったような気がする。もちろんフルクサスのメンバーにはそういうことを思っていない人もいるし、それは最初から承知で、ずっとその人なりの方法を持って展開している人もいるけど、フルクサスは特にいまは美術館に入ったり売れたりしているわけよね。それはもう、フルクサスじゃないかもしれない。本当はそういった状況、事態を覆していくことがフルクサスなんだ。過去のフルクサスじゃなくて、いまどういうふうにフルクサスを展開するかということを、フルクサスがやるべきなんだ。ともかく、ぼくはフルクサス・イヴェントの作品をいくつか作ったし、それはさっきから話しているアノニマスなものをめざすときの一種の原点になってるわけだけれどね。
そんな風にアートの制度に組み込まれるようなことがめちゃくちゃ起こってきたのがちょうど70年代、それにヒッピイズムとかもあった、そのときに仲間の偶然的なつながりが出来て、タージ・マハル旅行団という集団即興演奏のグループが出来たんだ。そのときははっきり意識してやってはいなかったんだけど、それは、ぼくにとって、フルクサスが制度化されたことへの反動あるいは反発かもしれない。やっぱりアートに対する反発なんだ。タージ・マハル旅行団は「遊び」だからね、「遊び」なんだけれど、巻き込まれていくんだ。たとえば「ピクニック・バンド」っていう名前をつけたりする。すでにもう名前をつけること自体が自由な遊戯性からは外れる事になっていく。構成メンバーはみんな無意識にそういうことを知っていたと思うんだけど。とにかく、70年から76年まで約7年間やってて、ものすごくおもしろかったんだけどね。遊戯性ということとアノニマスということとがつながってきたし、さっき言った、音楽という制度に対する反発とか、それから逃れるということとか……。でもぼくはまだそういうモデル、音楽というモデルの中で音楽をやっているわけだよね。そんな簡単にいかないんだな、これが。
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