2016年6月20日月曜日

奇界遺産

奇界遺産(著[写真・文]:佐藤健寿)」を読みました

▢「奇界遺産」について
奇界遺産 THE WONDERLAND'S HERITAGE
2010年1月20日発行
編著(写真・文):佐藤健寿
発行人:澤井聖一
アートディレクション&デザイン:古平正義
イラスト:漫☆画太郎
進行:柏女直美
印刷・製本:大日本印刷
発行所:株式会社エクスナレッジ

▢ 佐藤健寿(さとう・けんじ)
超常現象や世界の奇妙な現象を調査するサイトX51.ORG(http;//x51.org)を主宰、累計アクセス2億5千万を超え、様々なウェブアワードを受賞、2003年、エリア51で事故に遭ったのをきっかけに、UFOやUMA、ミステリー・スポットや奇妙な人・物・場所を追って、ヒマラヤ、南米、チベットなど実際に現地を訪れ、世界中を取材、現在はフォトグラファー/作家として雑誌等で活動。
著書「X51.ORG THE ODYSSEY」(講談社)、DVD「X51.FILES UFO in USA」が発売中。

▢ 掲載地域
 奇態 UNUSUAL STATES 
中洞組 ZHOUGDONG: CAVE VILLAGE
ブータンの男根魔除け図 PHALLUS OF DRUKPA KINLEY
ジープ島 JEEP ISLAND
セテニルとロンダ SETENIL & RONDA
ワカチナ HUCACHINA
諸葛八卦村 ZHUGE BAGUA VILLAGE
カピージャ・デル・モンテ CAPILLA DEL MONTE
クエラップとカラヒア遺跡 KUELAP & KARAJIA
メテオラ METEORA
モンサント MONSANTO
 奇矯 WIRED PLACES 
名山鬼城 GHOST CITY OF FENGDU
鹿港貝殻廟 SEASHELL TEMPLE OF LUGANG
キンタ・デ・レガレイラ QUINTA DE REGALEIRA
ワット・シェンクアンとワット・ケーク WAT XIENG KHUAN & WAT KEAK
ハウパーヴィラ HAW PAR VILLA
麻豆代天府 MADOU DAI TAIN FU
金剛宮 JINGANG TEMPLE
ティエラ・サンタ TIERRA SANTA
クカニロコ KUKANILOKO
ワッパーラックローイ WAT PAH LOK LOI
スイ・ティエン公園 SUOI TEN PARK
 奇傑 ECCENTRIC PEOPLE 
ジョン・ハッチンソン JOHN HUTCHINSON
サティア・サイ・ババ SATHYA SAI BABA
ヒラ・ラタン・マネク HIRA RATAN MANEK
フスト・ガジェンゴ・マルティネス JUSTO GALLEGO MARTINEZ
世界の果ての博物館 END OF THE WORLD MUSEUM
リプレー博物館 ROBERT RIPLEY'S BELIEVE IT OR NOT MUSEUM
三芝山頂寺貝殻廟 SEASHELL TEMPLE OF SANZHI
ココナッツ教団の島 ISLAND OF THE COCONU SECT
 奇物 BIZARRE THINGS 
楽山大仏 LESHAN GIANT BUDDHA
世界八大奇蹟館 MUSEUM OF EIGHT WONDERS OF THE WORLD
荊州博物館の2千年前のミイラ MUMMY OF JINGZHOU MUSEUM
モチェのエロ土器 EROTIC ARTIFACTS OF MOCHE
ミイラ博物館 MUSEUM OF MUMMY
アガスティアの葉 AGHASTIA'S LEAVES
デリーの錆びない鉄柱 IRON  PILLAR OF DELHI
タ・プローム TA PROHM
 奇習 ODD CUSTOMS 
ビンロウ西施 BETEL NUT BEAUTY
シリラート病院法医学博物館 FORENSIC MEDICINE MUSEUM, SIRIRAJ HOSPITAL
ボリビアの忍者学校 NINJA DOJO OF BOLIVIA
サガダの懸棺 HANGING COFFINS OF SAGADA
サンフランシスコ教会の地下カタコンベ CATACOMB OF SAN FRANCISCO CHURCH
エヴォラの納骨堂 BONE CHAPEL OF EVORAS
イカ博物館の穿孔頭蓋骨 TREPANNED SKULL
 奇怪 HIGH STRANGENESS 
エリア51 AREA 51
ロズウェル ROSWELL
ファティマ FATIMA
ナスカの地上絵 NAZCA LINES
ナンマドール遺跡 NAM MADOL
三星堆遺跡 SANXINGDUI RUNS
アンティキティラの機械 THE ANTIKYTHERA MECHANISM
ヒマラヤのイエティの頭皮 SCALP OF YETI
イースター島 EASTER ISLAND

▷「奇界遺産」の感想
写真がメインのいわゆる写真集ではあるものの、書かれている文章が結構面白い。というより、載っている写真が奇抜すぎて、中には一体何なのか判断がつきかねるものも多く、説明を兼ねたその文章を読むことが重要であったというべきか。
ただ、あくまでも写真集であり、文章は二の次のところがあり、背景に負けていたり文字が小さすぎたりと、非常に読みづらい。それは予想以上のストレスとなった。
写真集といっても、文章がなければ成立しないと言っても過言ではないわけで、“見る”ことへの比重と同等なくらいに“読む”ことにも気を使ってほしかったというのが正直なところ。

この本の意図するところは序文を読めば明白だ。
─壁画、すなわち<芸術>であり<魔術=オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされたわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないからだ。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。─<序文より>
ラスコーの壁画を生まれて初めて教科書などで見たときの記憶を思い出してみた。おそらく(もはや想像でしかないのだが)、子供心に理解不能だったと記憶する。何でこんなものが後々まで残されて、そして現代において教科書に載るほど貴重なものとなっているのか、全く理解できなかった(と思う)。
ここに掲載されてあるもの全てにおいて、似たような感情が湧き起こる。と同時に、それとは多少違った思いも伴っている。それは、遠い未来において現代人が築き上げた“遺産”としてどうにか残ってほしいという感情、そして愛おしさ─。

▷ 個人的に気になった場所
<ジープ島>
ミクロネシア連邦のチョーク環礁外れ、そこにまるで絵に描いたような「南の島」がある。名前はジープ島(旧名・婚島)。オーナーは何と、日本人の男性である。
チョーク諸島の内海には、かつて米軍の爆撃機で沈められた旧日本軍の戦闘機や戦艦が今もあちこちで沈んでいる。
かつて日本が統治していた土地は、大戦の後のアメリカ統治を経て独立し、そしてまたその地の一部が日本人がお金で購入しているという事実に、戦後日本の縮図を見た。
<金剛宮>
台湾北部、三芝の山頂に発つ謎の道教寺である。台湾や中国の他の寺同様、神仏のミクスチャー具合が激しく、さらにスパイスとしてタイの仏教も加えられたごった煮的宗教施設となっている。入口にはまずアッパーな色彩の玉皇大帝像、その横にはギリギリでハリボテ化を免れた巨大な龍頭が並ぶ。こじんまりとした入口とは対照的に、中は意外と広大。通路にはカラフルな六十甲子神と呼ばれる道教の神様が万国神仏即売会のよう並べられている。一様にキッチュなマンガ面の神々に、いちいち突っ込みたくもなるが、奇をてらった様子はなく、その表情はあくまで天然である。そんな通路を歩くことしばらく、突然別次元の神が現れる。その名も甲子太歳金辮大将軍。蒸し風呂のごとく熱された寺の中で、逆光に照らし出されたその四次元的造形に、思わず卒倒しそうになった。常人の想像力のはるか彼方に屹立するそのご神体は、独創性と個性なんて言葉は超えて完全に自由だ。館内に他にも唐突な関羽像やド派手な寝仏、五百羅漢など多くの“山場”が作られているが、あの神様を見てしまったら、あとは何を見ても不感症である。ぐるっと回り終えて再び炎天下の外に出てみたが、やっぱり何の寺なのか分からなかった。蒸し風呂のような寺の中で見たあの四次元ゴッドは、やっぱり幻だったんだろうか。
個々の展示物を見ると、いずれも興味をそそるものばかりなのだが、それらを包括的に眺めたとき、なぜかその地へ赴くことへの煩わしさが湧き起こる。節操のないその創造力に、おそらくとてつもない疲労感を感じてしまうに違いない。
<ティエラ・サンタ>
仏教や道教をテーマにした愉快なテーマパークは数多く、本書でもいくつか取り上げている。しかし同じ宗教であるにもかかわらず、ことキリスト教徒なるといまいち「笑い」にしてはいけないシリアスなムードが漂うのは、ひとえにイエスという世界最大のヒロイックな存在のせいだろう。ところがアルゼンチン、ブエノスアイレスの外れに、この「イエス×エンターテイメント」を実現した、神をも畏れぬテーマパークがある。その名もずばり「聖地」を意味する、ティエラ・サンタ。ティエラ・サンタは広大な敷地の中に、イエスの生涯や聖書にまつわる逸話を、等身大の人形で見事に実現。これらの人形は少なからずキッチュな趣もあるものの、一応真面目な作りであり、人形を前に思わず涙を流している観光客もしばしば。しかし目玉はなんといっても、敷地内中央にある、高さ18mを超える「機械仕掛けのジーザス」である。開園中は30分ごと、神々しいゴスペルに被さるギリギリというモーター音とともに、岩場の中からゆっくりとイエスが姿を現す.ダンダン頭が見えてくるその様子は完全に発射台のロケットである。岩場も、ヤシの木も、キリスト自体も、完成度はどう見てもチープl。さすがに私が噴き出しそうになって隣を見ると、どっこいおばちゃんたちは涙を流しているじゃないかどんな真面目な教会や聖堂でもない、こんな所だからこそ、宗教観の違いというものをまざまざと痛感したのであった。
なんといっても、モニュメンタルな「機械仕掛けのジーザス」が格好良すぎる。まるでホドロフスキーの映画「ホーリー・マウンテン」や「サンタ・サングレ」などの虚実が、現実世界に突如として現れたような印象がして、不思議な魅力で引き寄せられる。
<ワッパーラックローイ>
アジアには、俗に珍寺などと呼ばれるユニークな寺が多いが、ことタイは、元来のファンシーな国柄ゆえ、アジアでもぶっちぎりの珍寺の宝庫だ。そしてそんな強豪ひしめくタイのなかでもおそらく最強の珍寺が、このワッパーラックローイである。ワッパーラックローイはバンコクの北約300㎞、ノーンタイと呼ばれる町の外れにある。1991年(タイ歴2534年)、元は何も無かった野原に身一つで訪れた現住職が入植し、地元民からの寄進を少しずつ集めながら、弟子達とともにコツコツとこの驚異の寺を作り上げたというのだ。1000体を超える膨大な石像たちが埋め尽くすその境内はまさにカオス。寺の名を借りたモンスター・パラダイスとでも言うべき、壮絶なコンクリート・ジャングルがそこにある。伝道で仏像が回転しながら、ゲーム形式でコインをトスさせるアグレッシブな賽銭回収マシンから、ときに住職の念仏をかき消すほど激しい咆哮を上げる巨大恐竜まで。ノー・リミットで暴走する住職の想像力を具現化した、一大仏教ギャラクシーが繰り広げられている。一応誤解なきよう言っておけば、個々の本堂はあくまで真面目な仏教寺である。ただ宗教に関する表現力が、我々よりちょっとばかり自由すぎるだけなのだ。
造られた経緯がテーマパークとは全く違っていることもあってか、奇抜でありながら不思議とその地に溶け込んでいる印象がする。そして、ガイコツとか地獄とか恐怖系の展示物も何だか愛嬌を感じてしまうところが非常にいい。
<スイ・ティエン公園>
高さ70mの国王像が見守るアジア最強のテーマパーク
ホーチミン郊外の広大な敷地に建てられたスイ・ティエン公園は、アジア、いやおそらく世界でも最強クラスのテーマパークである。ベトナム建国の神話をベースにした園内は、一言でいえば狂ったディズニーランド。可愛らしいネズミたちの代わりに、四聖獣(鳳凰・玄武・麒麟・龍)を中心とした巨大な怪物たちが、106ヘクタール見下ろす、極彩色のプール。高さ70m超の国王象、両脇に配置された龍やら怪魚の作り込みには、製作者の狂気じみた想像力が刻み込まれている。他にはジェットコースターや観覧車はもちろん、奥にはお寺や、1500頭以上のワニを仕込んだ「ワニ王国」なる釣り堀もある(肉をつけた釣り竿でワニを一本釣り)。したがって、ワニを釣った後にウォータースライダーを滑ってから最後にお寺に参拝、なんていうクレイジーな行動も余裕でカバー。ここまでやりきると、むしろ格好よくすら見えてくるから不思議である。そもそも民族起源というディープなテーマを、エンターテイメントとして昇華させるなんてことは、なかなかできることじゃない。舶来のお仕着せファンタジーでないナショナリズム全開の土着神話的遊園地。広くて濃すぎる国内を一巡とした頃には、なぜか虜になってしまうはず。
表紙を飾るこの印象的な彫像(?)は、プールの水が涸れたとしても“遺跡”として残っていくような予感がする。
<世界の果て博物館>
世界の果ての地に存在した、謎多き民族ヤマナ
摂氏零度以下の暴風が吹き荒れる極寒パタゴニア。その南端に位置するフエゴ島に、今は失われたヤマナという謎多き民族が存在した。ヤマナの人々が西洋人に“発見”されたのは1826年。かのダーウインを乗せたビーグル号である。一行はそこでヤマナの子供4人を誘拐し、英国へ連れ帰って“教育”を施した。そして3年後、彼らを通訳に仕立てて宣教活動や“啓蒙”を行ったが失敗、ヤマナとの間に戦争が生じてしまった。しかしその後、英国の冒険家が単独で接触、同じように裸で過ごし、はじめて彼らの本当の姿を記録した。曰く、「ヤマナは人口3000人程で、定住せず、遊牧民族のように暮らす。服を着る習慣がなく、寒さしのぎにクジラの脂を体に塗る。特定の統治者はなく、複数の家族で共同体を形成し、収穫物は平等に分配する。海は女性に属するとされ、争いの際には女性シャーマンが最終決定権を持つ」。結局、ヤマナの人々は英国人が“啓蒙”とともにもたらした伝染病によって激減し、21世紀に至る前にその地は完全の途絶えてしまった(最後の純ヤマナ人は1999年に死亡)。現在、世界最南端の町ウシュアイアにある「世界の果て博物館」には、ヤマナ族の数少ない記録が展示されている。何かを威嚇するその異様な姿は、文明社会への強烈なアンチテーゼにも見えるのだった。
チリのドキュメンタリスト、パトリシオ・グスマン監督の映画「真珠のボタン」を見て、そこにパタゴニアの先住民が登場していたので、それに関連して興味を持った。
<イカ博物館の穿孔頭蓋骨>
古代インカのワイルドな脳外科手術
ペルー南部のイカは、リマから地上絵のあるナスカへと向かう道中にある、旅行者も少ないうら寂しい雰囲気の街である。しかし街の外れに、通り過ぎるにはもったいないほどパンチの効いたイカ博物館がある。中に入ると目に飛び込むのは、陳列された膨大な頭蓋骨。しかしよく見ると、そのいずれもがどこか異常。ラグビーボール形の頭蓋骨。これは古代、人々が信奉した天空の神に似せて矯正したといわれるが、どう見てもエイリアンである。他にはぽっかりと大きな穴があいた頭蓋骨もある。これらは長らく悪霊払いのために行われた魔術的行為の犠牲者と信じられてきた。しかし最近の研究により、アンデスの人々はこれを現代と変わらない医療目的の脳外科手術として行っていたことが明らかになったという。この手術はトレバエーション(頭蓋穿孔)と呼ばれ、紀元前1000年頃からはじまった。発見された頭蓋骨の孔の縁が治癒していることから、手術は90%以上の確率で成功し、患者は術後も長く生存していたことが分かっている。現在ですら難しいとされる脳外科手術。患者の根性が凄いのか、医師の技術が凄いか分からないが、かなりワイルドな手術だったことは想像に難しくない。いまだ謎多き、失われた超古代医療技術なのである。
この頭蓋骨からどれほどの創造物が生まれていることだろう。遺産というものは、単なる観賞物に留まるものではなく、先人の遺したものに知的好奇心を掻き立てられると一面を、改めて垣間見た。

世界遺産を絶対視する人にはおすすめしない写真集ではあるけれども、見れば必ず何かを刺激されることは間違いない。ただ、「奇界遺産パート2」なるものに、なかなか手を出す気が起こらないのは、なぜだろう?

2016年4月9日土曜日

<社会派シネマ>の戦い方

シネマレッスン・シリーズ CineLesson9
<社会派シネマ>の戦い方(フィルムアート社)を読みました。

▢「<社会派シネマ>の戦い方」について
編     北小路隆志+水原文人+編集部
装幀    岩瀬 聡
編集部   津田広志+伊藤克則+森宗厚子
写真協力  山形国際ドキュメンタリー映画祭
      スタンス・カンンパニー
      アスミック・エース
      ブエナビスタ
      パンドラ
      映像文化協会
      土屋豊
      川喜多記念映画文化財団
      アップリンク
カバー写真 小川紳介『日本解放戦線・三里塚の夏』
見返し写真 テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』
著者    北小路隆志
      水原史人
      とちぎあきら
      村山匡一郎
      奥村賢
      平井玄
      瀬川裕司
      斉藤綾子
      木村建哉
      杉原賢彦
      鬼塚大輔
      森直人
      越智敏之
      酒井隆史
      小倉虫太郎
      石坂健治
      暮沢剛巳
      井上リサ
      西村安弘
      濱口幸一
      佐崎順昭
      江口浩


▢ 載っている映画・映画作家
[映画]
チチカット・フォーリーズ
俺たちに明日はない
ベトナムから遠く離れて
三里塚・第二砦の人々
ゴッドファーザーPARTⅡ
ナッシュビル
愛のコリーダ
ヒトラー
アレクサンダー大王
ショアー
ゆきゆきて、神軍
ドゥ・ザ・ライト・シング
ボブ・ロバーツ
新ドイツ零年
ナムヌの家
アンダーグラウンド
プライベート・ライアン
ブッグ・アメリカン
カジノ
メイン州ベルファスト
クレイドル・ウィル・ロック
新しい神様
初国知所之天皇
教えられなかった戦争・沖縄編
インテリア
JM
ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ
ブレア・ウィッチ・プロジェクト
七本のキャンドル
クンドゥン
ファイトクラブ
救命士
こわれゆく女
シャイニング
アントニア
愛を乞うひと
白い巨塔
ヒポクラテスたち
エレファント・マン
ブラック・ジャック
海と毒薬
野性の夜に
フィラデルフィア
パッチ・アダムス
隣人は静かに笑う
鬼教師ミセス・ティングル
スモール・ソルジャーズ
カラー・オブ・ハート
BULLET BALLET バレット・バレエ
カリスマ
8㎜
息づかい ほか

[作家]
フレデリック・ワイズマン
ロバート・クレイマー
アモス・ギタイ
ストローブ・ユレイ
フランシスコ・フォード・コッポラ
小川紳介
スティーヴン・スピルバーグ
オリヴァー・ストーン
イアン・ケルコフ
ジガ・ヴェルトフ集団
メドヴェトキン集団
ミシェル・クレイフィ
ティム・ロビンス
ドゥシャン・マカヴェイエフ
ニコラ・フィリベール
トリン・T・ミンハ
マチュー・カソヴィッツ
テリー・ギリアム
スパイク・リー
田荘荘
佐藤真
テオ・アンゲルプロス
バーバラ・ハマー
ライナー・W・ファスビンダー
ナンニ・モレッティ
クロード・シャブロル
黄建新
原一男
崔洋一
土本典昭
フィリップ・ガレル
リノ・ブロッカ
渡辺文樹
マイク・リー
マーティン・スコセッシ
ジョン・シュレシンジャー
ロバート・アルトマン
ドグマ95
ケン・ローチ
朴鐘元
アーネスト・ディッカーソン
熊井啓
チャールズ・チャップリン
キング・ヴィダー
マーヴィン・ルロイ
ウィリアム・ウェルマン
フランク・キャプラ
ジョン・M・スタール
ウィラム・ワイラー
ロベルト・ロッセリーニ
ヴィットリオ・デ・シーカ
エリア・カザン
ニコラス・レイ
スタンリー・クレイマー
ジョン・フランケンハイマー
今井 正
山本薩夫
家城巳代治
関川秀雄
亀井文夫 ほか


▷「<社会派シネマ>の戦い方」を読んで
社会派シネマとは果たして何なのか─。何となく漠然と理解できるようなできないような…。自分の中だけのイメージでいうと、ケン・ローチとかシドニー・ルメットが監督するような劇映画、あるいは反戦や社会の不正をテーマとして描いている劇映画、それと小川紳介や土本典昭といったドキュメンタリストが作る社会問題や公害などを取り扱ったドキュメンタリー映画等、社会の問題を見ている者に提起する作品がそれにあたるような気がする。
ある映画作品が現実の、特に現在の人間の生活を描く場合、背景となる社会の要素が入り込んでくるのは、そう珍しいことではない。つまりは、社会も描かれているわけだが、これだけでは社会派映画とは受け取られない。そのように呼ばれる作品は、社会そのもの、とりわけ社会の矛盾や問題に、見る者の目を向けさせるように作られている。言いかえれば、観客に社会を意識させることが、社会派映画を定義する上で最も重要な特徴となる。
本のなかで書かれている一節には、非常に納得させられる。単に事件や問題を描写するだけでなく、見ている者が問題意識を持つように仕向けられている作品こそが、社会派シネマといえるのだろう。
そうなると、この本の冒頭に登場する映画「チチカット・フォーリーズ」や、監督紹介で真っ先に登場するフレデリック・ワイズマンなどは、本当は社会派シネマとは言えないのかもしれない。
「4週間から11週間の時間をかけて撮影した80時間から110時間前後フィルムを編集した、76分から356分の間の長さで、社会の中にある組織・集団・人々について、私が見たこと、考えたことを描くもの」ワイズマンは自分の映画をこう定義している。
実際にワイズマンの映画を見て思うことは、必ずしも社会的な問題意識などではなく、あくまで我々が生きている社会の一面であり、考えるというよりもむしろ楽しむといったほうが正確だ。だから前出の社会派シネマの定義には当てはまらない気がするが、あの定義は謂わば古典的な映画において提示されているものであるわけで、現代においてはその定義もかなりの広がりを持っていると推測される。であるから、ワイズマンも、さらにはスピルバーグなども社会派シネマとして語られているのだろう。
21世紀に突入する映画を巡る環境はカオスだ。とにかく映画はその純粋な身体あるいは領土を維持する夢を捨てたほうがいい。たとえば評論家や研究者のなかに、ある種の作品を「これは映画ではない」と批判し、それで決定的な何かを口にした気になる人たちがいる。とんだ時代錯誤だ。
つまりは、社会派シネマという堅苦しいテーマだからといって堅苦しく映画を捉えてはならないということなのかもしれない。
映画は社会や現実の鏡ではないが、どんな映画でも社会や現実が直接的、間接的にその映画を取り巻く状況や社会に深く関わり─
どんな映画にも社会性というものは備わっていて、そう考えると、社会派シネマという分類は無意味なように思えてきてしまう。あくまで分類することが無意味ということであり、映画を社会と照らし合わせて考えることは必要不可欠で、すべての映画を社会派シネマとして捉えると、より深くその映画を咀嚼することが可能になる。
ハリウッド映画の象徴のように輝くあのスピルバーグ映画も、社会派映画だという認識でもう一度見直してみると、今までとはひと味違った見方ができる。その意識が有意義なもなかどうかは、また別な話ではあるけれど─
スピルバーグが<社会派>映画を撮るということは、ハリウッドが持つ啓蒙システムとしての側面に大きく加担するのと同義であり、本人に自覚があろうとなかろうと、その作品はアメリカ合衆国の信頼性を補強する道具に利用される。
スピルバーグがオスカーを手にしたのは「シンドラーのリスト」と「プライベート・ライアン」だという事実。それら大戦を扱った作品がアメリカ映画の象徴として世界に発信されている。「未知との遭遇」「E.T.」「インディ・ジョーンズ」いった作品よりも、オスカー受賞作のほうが優れているという印象を持たれることは必至。それがプロパガンダにつながっている見ることは飛躍しすぎだとは思うが、“本人に自覚があろうとなかろうと─”という部分をも勝手に、言わば斜め読みしていくことで、ひとつの映画の楽しみ方が大きく膨らむことは確かなことだ。
三島由紀夫にならって黒澤明の思想を中学生とするなら、スピルバーグは幼稚園児程度─
そういう行き過ぎた見方をすることは、常に娯楽大作を志向しているようなスピルバーグにはやや酷なように思うのだが、映画というものは様々な角度から鑑賞可能なのだということがよく分かる。
過度の斜め読みもまた重要なことで、とかくメディアリテラシーという観点から、独自の視点で自らを取り巻く状況や社会とを比較しながら映画と対峙すべきなのだろう。
カメラは必然的に被写体から何かを暴きたてる─
あらゆる映画がプロパガンダ映画である─
「ほんの視線一つが情熱を、殺人を、戦争を誘発する」─ 
カメラワークは視覚の拡張のあらわれであるが、それは視覚を拘束する自由をも含めたものだといえよう。─
映画は大衆を魅了し、大衆を煽動し、大衆を操る力を秘めている。映画の良さも悪さも映画自らがそれを隠しもせずに晒し続けてきているわけで、それをどういうものにするのかはあくまでも見ている側に委ねられている。
映画は夢であるとしても、それは現実逃避のための夢ではなく、「現実」を直視するための夢である(略)僕たちは現実が恐ろしくて夢に逃避するのではなく、夢が恐ろしくて現実に逃避ししているのだ。
夢が嫌で現実に戻ってくるぶんにはいいが、夢から覚めない大衆の中に自分がいることがないように─
「限りない教えと観察を集めること」
それを心がけて映画を見続けていこうと、心に誓う一冊であった。


2016年3月16日水曜日

中国の神話

「中国の神話(著:白川 静)」を読みました

▢ 白川 静
1910(明治43)年福井県生まれ。立命館大学院教授、文字文化研究所所長。43年立命館大学法文学部卒。84年から96年にかけて『字統』『字訓』『字通』の字書三部作を完成させる。主著に『説文新義』『文字逍遥』『甲骨文の世界』『金文の世界』『中国の古代文学』『詩経』『初期万葉論』『後期万葉論』『回思九十年』など。他に『白川静著作集』(全12巻)がある。<「中国の神話(1980年初版2003年改版)」より>
2004年文化勲章受章、2006年96歳で死去。


▷ 著者を知る
字書三部作の最後『字通』が世に出た1990年代後半、白川静という学者が頻繁にテレビで流れていたと記憶する。個人的に文字というものに抵抗感を持ち続けていたため、文字の研究に生涯を捧げている強者に強く惹かれたような気がする。その字書に対しても大きな興味を持ったとはいえ、それぞれが数万円もする書物を買うことには抵抗があった。
現在は各字書の普及版なるものも出ているので、覚悟を決めれば手に入れることも容易なことだが、その勇気がなかなか起こらない。というのも、内容があまりにも難解というか興味を持って最後まで臨めなさそうな気がしてしまう。
2000年代には白川静の著作物が多く出回っていたように思う。文庫や新書もその中にいくつか含まれていたため、ものは試しという気持ちでその著作物に対峙することも可能になったわけだ。


▢「中国の神話」について
1980年2月10日初版発行、2003年1月25日改版発行
中央公論社発行、中公文庫BIBLIO、定価1000円(税別)


▷「中国の神話」について、私見
2003年の改版が出たころだろうか、書店に平積みで並べられていた。
ものは“試し”、とりあえず内容は問わない、中国の古代の歴史にも多少は興味があるし─、ということで中身も確認せずに購入してしまったのが良かったのか悪かったのか…。結果すべて読み切るまでに、10年以上の歳月を要してしまった。
自分には内容が難解すぎた。勝手なイメージで「聊斎志異」のような物語が並んでいるものと思っていたのだが、全く違ったもので、あくまでも学者の論文であり、中国の神話研究が載っているものだった。

一般に中国は「神話なき国」とされ、その合理的、実利主義的な国民性が、神話の上にも不毛を招いたのであろうとされている。(略)その神話は孤立的に、無体系のままで残されている。このような様態は、縦の時間的組織関係を持つわが国の神話をA、横の同時的組織関係をもつヨーロッパ所属の神話をBとするとき、これらと異なる分裂的な様態のものとしてCとすることができよう。
政治的、文化的統一を達成した段階ではA的な体系、文化統一的の過程においてはB的な体系、その並存的な関係ではC的な体系の様態をとる傾向があるということである。 
中国の神話は、C的な特質をもつものといえよう。「神話なき国」とされる中国の神話は、実は体系なき神話であり、あるいは体系化を拒否する神話であったというべきであろう。それでもし体系化を要求するときにおいても、それは多元の包摂による統一という形でなく、のちに述べるように、神話的表象をすてた世界、すなわち経典や歴史の中で行われる。そのような中国神話の特質を考える上からも、この類型規定が、その理解をたすけるところがあるように思われる。 
大体神話は、継承される性質のものではない。国が滅びると、神話は滅びるのである。
そもそも日本の神話、古事記とか日本書紀がそれにあたるのだろうか、それ自体もあまりよく理解していないのに、いきなり他国の神話を詳細に論述されての無理があるし、それがまた日本の神話と比べてどうなのかという比較論までされてしまうと、苦しい…。
とはいえ、ギリシャ神話やユダヤ教・キリスト教などの他国の神話を自国のそれよりもよく知っているという例はあるわけだから、いきなり中国のそれを─、というのも悪いものではない。悪くはないけれど、最初は“お話”を語ってほしいところではあるけれど、その内容を全く知らないままに研究の結果だけを目にしたところで、果たしどれだけのことを理解しきれるものなのだろうか。
そういった思いから長年放置し続けた難敵に決着をつけてやった。まぁ、読み終えた率直の感想といえば、完敗という一言に尽きるのだが…


▷ 感想や「中国の神話」の内容を絞り出す
中国は神話なき国といわれるが、はじめから神話がなかったのではない。殷王朝にはa的な体系として、また戦国期にはb的な体系のものとして、それぞれの神話があった。ただこれを統一する主体を欠くものであった。それでのちに、古帝王の説話が、五行思想が黄を中央の色とすることから、黄帝を中心として系譜化されたが、その神系譜は、何らかの神話的な意味を持つものではなかった。中国の神話はまた、このような古帝王の系譜の中に隠されているのである。
そもそも、“中国は神話なき国といわれる”という事実すら知らなかったわけで、果たしてそうなのだろうかという大きな疑問すら持ってしまう。よく耳にする中国四千年の歴史というのは─、確かに歴史的な客観性を帯びた事実はよく聞くけれども、ナニナニ伝説とかほとんど聞かないように思う。
 中国の神話の研究には、その祭儀の実修形式から神話の意味を追求しようとする解釈学的方法などは、あまり有力なものでない。それは祭儀の形式も、説話の具体的な内容さえもほとんど伝えられることのない、隠された神話であるからである。何よりもまず、その隠された神話を発掘すること、神話の原形態を復原することから、はじめなければならない。そのことをはじめて試みたのは、わが国の場合と同じく、外国の学者であった。優れたエジプト学者を父とする古代史家マスペロの『書経中の神話』(1924年)は、その意味で画期的なものであったといってよい。マスペロはそこで、『書』のなかから、太陽神の御者としての義和(ぎか)の説話、禹の洪水説話、また天地の開闢を説く重黎(ちょうれい)の説話などを、発掘してみせた。中国の神話がなおほとんど未開拓であった当時としては、それはおどろくべき創獲であった。
つまりは、中国最古の歴史書『書経』のなかに、世界各地でみられるような洪水伝説のようなもの、あるいは日本の天照大神にも似た義和あるいは天地開闢の話といったものが載っていたというのだ。つまり歴史的ドキュメントであると思っていたもののなかに、フィクションも巧みに織り込まれており、歴史書というよりも良く言って“伝記”といったところだろうか。
中国には数種の洪水説話がある。洪水神としては禹、共工や伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)、また伊尹(いいん)の説話がある。それらはいずれも河南西部の古い洪水地帯に起こったのであり、それぞれ異なる種族の間に伝えられたものであろう。禹は夏王朝の始祖ともされるもので、それは夏系の神話である。共工は姜姓の神であるらしく、羌人の伝えたものと思われる。伏羲・女媧は、その説話がのちまでも広く苗系の間に行われていることからみても、南方の苗人のもつ神話であった。
複数の民族からなる中国において、似たような神話が複数存在する。それはまるで民族の数だけ存在するかのようであるが、それらが半ば姿を消しているのは、勝者と敗者の理論がそうしているようだ。即ち、支配民族が歴史書を都合よくした結果、神話も埋もれていったということらしい。何せ中国において歴史書というものは、記録を超えたものとして捉えてきた歴史があるようなのだから─
もし卜辞資料が出現しなかったならば、この索漠たる系譜のみを『史記』に残している殷王朝の神話的世界観は、その存在すら知られなかったであろう。歴史のなかにある神話が、必ずしも本来の実態を示すものでないこと、歴史はむしろしばしば神話への加害者であることを、われわれはこのことから学ぶべきであろうと思う。
甲骨文字が見いだされていなければ、概念的にしか記録されてこなかった殷王朝は、それほど重要視されることがなかったということだ。確かに歴史的事実の記録は重要であろう。しかし歴代の王が並ぶ系譜を見たところで、その時代のことは何も知り得ないのだ。
神話は、それぞれの民族がもつ固有の構想力の、最初の所産である。
歴史は神話というものが成立してこそ生命的に動き出す。
中国の神話が、その形を変えて多くの経書の中に隠されていることは、すでにマスペロの指摘するところであった。『書』の中には、マスペロが指摘したほかにも、なおいくつかの神話を見出すことができるが、そのためには、失われた神話がどのようなものであったか、それを回復し、その性格を考えておくことが必要である。
そこにはあらゆる民族闘争が含まれていて、そこに潜むメタファーを捉えていかなければ神話を見出すことができないという。
尭のとき、十日が並び出て草木はただれて枯れ、民は生食に道を奪われた。その上、猰㺄(あつゆ)、鑿歯(さくし)、九嬰(きゅうえい)、大風、封豨(ほうき)、脩蛇(しゅうだ)などの悪獣が民の害をなしたので、尭は羿に命じてこれらの邪神を殺し、最後に脩蛇を洞庭湖に断(き)り、封豨を桑林に禽(とら)えた。また十日を射てその九日を射ち落としたので旱害もおさまり、民は生色をとりもどし、尭を天使としたという説話である。
この話はよく目にする物語で、まさに神話でしかないと思ったりする。上記にある羿の話は『淮南子』の引用だが、ほかにも形を変えて『楚辞』『左伝』などにも弓の名手羿が登場して、さらには苗族、台湾、マライ、スマトラなどでも似たような物語があるという。まさに中国の神話は歴史書に隠されているわけだ。
伝統の形成には、きびしい精神の営みを必要とする。神話の創造にロゴスとパトスとの内的統一が必要であるように、伝統の傾城にもそれが必要である。中国においては、そのロゴス的な面は、王朝の交替をこえた天下的世界観の中での古聖王の説話、すなわち『書』のような経典として、またそのパトス的なものは、巫祝者の伝統として、のちの楚辞文学を生むのである。わが国でいえば『記』『紀』と『万葉』とがそれにあたるが、そこに神話的な精神がどのように貫徹されているかは、わが国の神話のもつ一つの問題であるといえよう。
正確につかむのが非常に難しい表現ではあるけれども、要するに、神話が成り立つには理論的表現と感情的表現の融合が必要だということなのだろう。中国には理論的記述としての『書経』が存在し、そしてまた感情的な表現として『楚辞』がある。一方、日本においては記述としての『古事記』日本書紀』、表現としての『万葉集』があるというわけで、それぞれの書物がどれだけロゴスとパトスの融合がなされているのかという疑問提起になっているわけだ。
神話の体系は、異質的なものとの接触によって豊かなものとなり、その展開が促される、それには摂受による統一もあり、拒否による闘争もあるが、要するに単一の体験のみでは、十分な体系化は困難なようである。そのため孤立的な生活圏は、神話にとってしばしば不毛に終わる。中国も本来単一の種族ではなく、その先史文化や神話を通じて、種々の種族的葛藤を経験していることは、すでにみてきた通りである。
これだけを見ると、中国に神話がないという定説は偽りなのかとも思ってしまうけれども、それでもなお、著者は中国の神話は“枯れている”と説く。
中国の民族は四夷の混合より成り、その文化は多元的であり、また複合的である。その点において、わが国と同じといえよう。しかしその神話がわが国のように多元的、複合的でありえなかったのは、神話が特定の歴史的時期にのみ形成されるものだからである。われわれは神話について、特にそのことを重視しなければならない。中国の歴史の上では、それは殷王朝の時代にあたるが、このとき中国は、なお民族的、文化的統一に達していなかった。また殷王朝の滅亡によって、その歴史的時期も失われている。その神話がC類型にとどまるのは、それゆえであろう。それでその民族的、文化的な統一を達した時期に、彼らは古帝王の系譜化によってその概念的整合を試みたが、そこにはロゴスもパトスもない。それはすでに神話ではなく、天下的世界のイデオロギー的反映である。
つまりは、中華思想なるものが色彩豊かな文化を削ぎ落としてしまったのかもしれない。突き詰めてゆくと現政治体制の批判へと繋がりかねないので、個人的偏見は控えておくけれども、国の規模から見ても明らかに主義主張や思想といったものが少なすぎることは否めない。
中国とわが国の神話は、その経典化と歴史化という形で対比される。経典は民族文化の価値の根源であり、歴史は時間的継続のうちに生命の連続をみようとするものである。『記』『紀』の神話は、明らかに歴史への接続を試みている。当時の王朝政権に参加した氏族たちは、多くはその遠祖の物語を、神話のうちに残している。『記』『紀』の編纂には、王家の記憶のみでなく、家々のもてる記録をも資料としたとされるが、それは王室と諸氏族との関係を、神話時代にまで遡らせてそれを基礎づけるためのものであった。そこには理念的なものがない。それは「みな上つ代の実なり」とする事実主義の上に立つ。その神話から理念的なものを求めるとしても、かつて一時となえられたような「事実主義」という以上のものは導かれない。事実主義というのは、単に経験的なものを超える、事実の具体的な絶対性の主張としてのみ、はじめて意味をもちうるのである。それ以前のものは、単なる事実でもありえない。
 中国の神話はまた、枯れたる神話の典型のようなものである。その神々は、ほとんどことばをもたない。共工が帝たることを争い、敗れて頭を天柱にふれ、天柱地維がために傾くという壮大な事件でさえも、神々のことばは何も残されておらず、事件としてのことが記されているのみである。そこにはロゴスの世界がない。また神々は人間的に行動することもなく、著しく非人間的である。ただ経典の世界においてのみ、神はことばを用いる。西周の後期に、王室が破滅的な危機に直面したとき、創業の王に哀告する詩編が多く作られた。それは「文王曰くああ ああなんぢ殷商 上帝のよからざるに非ず 殷の旧(老臣)を用ひざればなり」という大雅の「蕩」のように、殷商の革命を文王の語として回顧する。そしてそれは「殷鑑遠からず 夏后の世に在り」という革命へのおそれを戒める語で結ばれている。神話的なものへの回帰は、現実へのおそれから発しており、神の言葉は政治的訓戒として述べられている。
別に中国の神話を批判しているものとは思えないけれども、その神話を深く探っていくといまの社会形成に繋がっていくような印象を、どうしても持ってしまう。
豊かな神話を持つことが果たして本当に良いことなのか、個人的には多少の疑問はあるけれど、神話が全くない社会など存在し得ないと、この本を読み終えて強く思っているわけで、そうすると逆説的に社会を豊かにするものは神話なのかなとも思っている。

かなり絞り出したつもりだが、自分が捉えきれたのはこの本の半分程度であろうか。
中国の豊富な民族と広大な領土を交えながら、ダイナミックに、歴史書の中から神話を見出そうと試みられているのだが、あまりにも雑多な名称が多く、地理においても詳細に及びすぎていて、自分の知識ではほとんど捉えきれなかった。
また、文字研究者としての知識を生かしつつ、漢字の形成も交えつつ興味深い関連話も掲載されているものの、内容があまりにも細かすぎるため、ここにはほとんど記さなかった。
そして、まだ我が手元には未読破の白川静の本が残されている。これもまた難敵なのである。果たしてその感想を書く日は来るのであろうか─。





2016年2月23日火曜日

マイナー音楽のために 大里俊晴著作集

「マイナー音楽のために 大里俊晴著作集」を読みました


▢ マイナー音楽のために―大里俊晴著作集 概要
2009年11月17日に51歳で夭折した、音楽学者・ミュージシャンの大里俊晴が遺した著作などを一冊に纏めたもの。
雑誌、書籍、ウェブ、ライナーノートなどの媒体から、原稿用紙にして1200枚強。その他、インタビュー、対談、なども含まれる。
内容は、現代音楽やフリージャズを中心とした音楽論が展開される。それに加えて、文学や漫画などの評論などもある。
2010年11月17日に初版が有限会社月曜社から出版される。


▢ 大里俊晴について
1958年2月5日新潟生まれ。音楽学者・ロックミュージシャン。
70年代後半─80年代前半には「ガセネタ」「タコ」などのバンド活動をおこなう。早稲田大学文学部を卒業後、87─93年、パリ第八大学にてダニエル・シャルルの元で音楽美学を学ぶ。帰国後、音楽評論、ラジオ番組出演などを行う。著書に『ガセネタの荒野』(洋泉社)。音楽批評家・間章に関するドキュメンタリー『AA』(監督:青山真治)にインタビュアーとして出演。2009年11月17日永眠。享年51歳。
※「マイナー音楽のために」より


▷「マイナー音楽のために」との出会い
渋谷のタワレコであてどなく物色している最中、“大里俊晴”という文字が目に入った。ちょっとした懐かしさを覚え、その名が載る本を何となしに取ってみる。内容と値段ともに、かなりのボリュームで、抵抗を感じるが、“逝去”という言葉により、手放せないものとなってしまう。
大学で音楽概論なる授業を受けたのはそんな前でもないはずだが…、ほとんどサボってばかりいたなぁ…、流れる音楽も耳慣れなかったし…、いっちゃったんだ…早過ぎる…。
半ば郷愁なる思いで手に入れた本ではあったが、いざ読み始めてみると、相当の手強さ。究極のマイナーともいうべきものがそこにはあり、知識が全く追いついていかないのである。ふと、「出席しなくても論文出せば単位はあげる、でもよほどじゃない限りいい成績はあげないよ」といった趣旨のことを発言していた大里先生の姿を思い出す。その言葉に甘え、全く授業に出なかった自分を今さらながらに悔やんでしまうのだが…。音楽に確固たる厳格な信念を持っている人なのだと再認識しながら、静かに本を棚に置く。情けない話ではあるが、それからその状態が数年間続くことになる。


▷ 覚悟を決めて対峙する

PRIVATE CHART 10

阿部薫『なしくずしの死』(78)
アントナン・アルトー “Pour En Finir Avec Le Jugement De Dieu”(71)
イアニス・クセナキス “Persépolis”(71)
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド “The Velvet Underground(3rd)”(69)
コレット・マニー “visage-village”(75)
ジャックス “Live, 68. 7. 24”(73)
ティム・バックレー “Happy/Sad”(69)
パティ・ウォーターズ “Sings”(66)
ブルー・チアー “Vincebus Eruptum”(68)
空席

『STUDIO VOICE』1997年8月号
「特集=GREATEST RECORDS SV特集(永遠の名盤)ガイド」より

冒頭、自らの恥部を晒すかの如き嘆きの文章とともに、著者厳選の10枚ならぬ9枚が提示されて、出口の見えない長い旅が始まる。
確かに、かなり特異な選択だと思う。しかし、全く知らないわけでもないし、ジャズやら現代音楽やらロック、シャンソン、ポップ等々、非常にバラス良く並んでいるように思ってしまうのだが、恐らくそう思われることも赤面の極みなのだろう。
著者は、何でこんな苦しみ・辱めを受けなければならないのかという罵りと共に絞り出されている。空席を設けているのも、10などと限定することなどできないという、著者の正直な思いが込められているわけだ。
この本の最後に細野晴臣が解説として書いている─
これは毎月どこかでやっている平凡な企画で、普通の回答者は記憶の気楽なおさらいをしながら、正直に(読者を喜ばせたり、驚かせる目論見も多少持って)答える。考え込む必要はない。1年後に違う10枚を挙げても誰も咎めない。回答が刻々(雑誌に応じて)変わるのはむしろ自然だ。ところが大里はPRIVATEの語を誇大に解釈し、「誰にも見せたことのない、一番隠しておきたい、最も大切な場所」を総てさらけ出す要求と曲解する。アンケートを性器のように隠しておくべき絶対的羞恥の調書とみなす。
まさしく音楽に対してどれだけ真面目なのかとツッコミたくなるくらいだ。しかし、本を読み進めるうちに、冒頭の提示は本当に真摯に吐露したものだったということが実感されてくる。著者は音楽の嗜好についてこうこう答える─
音楽が好きだなといったときに、頭でとらえるものとマインドでとらえるところの両方がある気がして。
つまり、思考と感情のすべてをむき出しにされてしまったわけだ。

フランスの留学経験をもつ著者は、音楽への言及がかなりフランスよりとなっている。そして、その象徴ともいえる存在がコレット・マニーであろう。
ジャンルの限定なしに、20世紀最大の歌手、あるいはやや控えめに言っても、20世紀最大の歌手の内の一人、と呼ぶのがふさわしい
そう語り、コレット・マニー「ヴィザージュ─ヴィラージュ」(75年)を挙げて
何度でも言おう。このアルバムこそは、他の何千枚とも決して取り替えのきかぬ、常に新たに認識され直さなければならないモニュメンタルなディスクなのだと。
と断言している。
このコレット・マニーなる故人はいまだその評価は小さい。恐らく本国フランスでもそれほど大きく取り上げられる存在ではないと想像する。それでも彼女の偉業を主張し続けた理由は、その音楽だけが知っている─ということで、コレット・マニー「ヴィザージュ─ヴィラージュVisage-village」を聴いてみる。あくまで個人的な見解として、素晴らしい。
以降、登場してくるフランスからの刺客たち─

ジェラール・マンセ(Gerard Manset)
アントワーヌ・トメ(Antoine Tomé)「Éternité」
ルイス・クラヴィス(Louis Sclavis)「Ad Augusta Per Angusta」
ジャン=フランソワ・ポーヴロス(Jean-François Pauvros)「ル・グラン・ダムール( Le Grand Amour)」
「ゴダール・サ・ヴ・シャント?(Godard Ça Vous Chante? )」

小難しいエクリチュールよりも音楽なのだからまずは聴くこと。そうすれば必ず大きく視野が開かれる。それがたとえ渺漠たる野へと放たれることになろうとも、決して恐れず、自ら道を切り開こう、この分厚い本を道標として─…


▷ マイナー音楽の今むかし
私の気を重くしているのは、この原稿の性格上、廃盤になっているレコードに言及することを余儀なくされている、ということだ。今日フランス本国ですら普通には入手しがたいアルバムを紹介するというのは、あこぎな中古レコード屋の相場をつり上げることに奉仕する意外に、なんのメリットがあるというのか。勿論、ある紹介文を読んで興味を持った音楽を聴きたいという欲望は肯定されて良い。しかし、その実現のために法外な値段を支払わねばならないのだったら、その欲望を喚起すること自体問題がある行為なのではないか。そもそも、いかなる代償を支払っても入手する価値のあるレコードなどそうそうあるものではない。
著者がこのように記す理由がよく分かる。恐らく、著者自身も高尚な文章を読んで、中身を全く知らない音楽を貪り、そうやって暴利を貪られた側なのだろう。
昔、自分も某CDショップで透明な袋に入ったフリージャズについての本を数万円で売られていたのを目にし、心を動かされた記憶がある。その時は思いとどまった。しかし、それが果たして正しかったのかどうか、読んでみないと分からない。それを確かめるために数万なんて…。でも、その時は冷静であっても、他の場面では心の赴くままになけなしの金をはたいた時は何度もあった。
廃盤へのプレミアというかたちでなくても、そもそも供給能力が弱いというのがマイナー音楽の特徴であり、それ故、新品でも各々それなりに値が張っていたものだ。中身も分からないままにクジ引きのごとく、ドキドキしながらそれを開ける。
著者に言わせるとそれは愛しき“躓きの石”たち─
 例えば、70年代の半ば、雪深い田舎から生き馬の目を抜く魔都東京へとやってきた、なんも知らんウブな予備校生がいたとしよう。「なんか、オレもうこう、都会的っちゃうか、センレンされたっちうかよ、ふっ、その手の音に浸ってみたいもんよなあ。クニじゃヨシオが、これからはフージョンよ、とかっつーって、チック・コレアだかなんだか、さんざん聴かされたもんな。ま、クソ面白くもなんともなかったけどよ。ともかくECMってレーベルなら間違いねえらしいからよ、ここはひとつ」などと呟きながら、その彼が、偶々『チョロとギターのための即興曲』を手にしてしまったと想定されたい。多分、デレク・ベイリーという名前が、この間始めて入ったジャズ喫茶とやらで粋がってふんふん言いながら読んだジャズ雑誌に、竹田某だの間某だのといったやたら高踏的なヒューロンカが、小難しい単語てんこ盛りにしている中で、ちらっと出てきた固有名詞だったような気がしたのが、彼の知的劣等感にまみれた暗い部分を煽ったのかもしれない。ともあれ、彼はそれを買って家に帰り、針を落とすと、こう叫ぶことになる。
「ウヒャア、おったまげたあ。トーキョーには飛んでもねえもんが売ってるんだなあ。最初から最後までコリコリいってるだけでねえか……」。しかし、彼には自分の選択を失敗だと決めつける勇気はない。彼は東北人特有の粘り強さで、そのコリコリを何度も聴き返す。そしていつしか、そのコリコリに特別な親しみを感じている自分に気づくのだ……。
著者が書く思い出話(?)に共振する自分がいる。ドゥルーズ=ガタリが言う「偉大で、革命的なのはマイナーなものだけである」という金言を胸に秘め、ベイリー、ジョン・ゾーンらのフリージャズや、理解もできるはずもない現代音楽などに挑んでいた。
それらは、壊すものであり、再構築してくれるものであり、新しいものであった。色んな感覚が壊される、それは同時に、新たな見方を提示してくれる。
小杉武久のことを著者が評するその文章にも、その辺の感覚が述べられている─
“聴くこと”からの想像が彼の音楽を考えるときのキーポイントだろう。その意味で、この本には載っていないが、われわれには忘れがたいテクストがある。かつて小杉はルー・リードの、あのあまりに誤解された『メタル・マシン・ミュージック』の国内盤ライナー・ノートに、きわめて興味深いインストラクションを沿えたことがあった。それは要するに、そのアルバムを使ったいくつかの聴き方の遊びというようなものだったのだが、特に、「耳を手で塞いだり開けたりして音の変化を楽しむこと」という指示は、彼自身の作品(彼の作品は行為の指示だけ、というものが多い)そのものである。しかし考えてみれば、それはそのアルバムに入っている音楽をありのままに聴くなという指示であったわけで、いったいレコード始まって以来この人以外の誰が、ライナーにおいてそのライナーが付された当の音楽を「ちゃんと聴くな」などと言っただろうか。そのような不敬を冒してまでに(じるは、まさにそれはルー・リードが参照したラ・モンテ・ヤングの方法論に準拠した“ちゃんとした”聴き方なのだが……)、小杉は日常の行為である“聴くこと”を意識に上らせようとした。そのことによって、意識の僅かな、しかし深遠な変容を企んでいたのである。
このようなもっともらしい文章を読むと、なぜか非常に励まされる思いがする、あなたが聴いたマイナー音楽は決して無駄なものではなかったのだと。
このような著者による地道な啓発活動のおかげなのかどうかは知らないが、再販やデジタルデータとして埋もれつつあったものが徐々に世に出つつあるように思う。しかも、ネットワークが発達した今は、検索ひとつですぐに手の届かなかった音源を聴くことができるのだから便利な世の中になったものである。


▷ 現代音楽の意味
ある現代音楽事典を引いてみよう。「ミュージック・コンクレート」の項には、次のような定義が読まれる。「ミュージック・コンクレートは、その呼び名を、それが追求する美学的な目的ではなく、実際に使用された、一般的な具体音という起源に負っている。(中略)ミュージック・コンクレートはその第一段階として、具体的な音や雑音の録音(伝統音楽の楽器から借りてきた音、また、モーター、飛行機の急降下、シャンパンの栓、ハンマーやつるはし等々といった生活の中の音)から得られた音による新しいヴォキャブラリーを確立する」。
なるほど、そうではないか、と人は思うかも知れない。なにかこの記述に問題があるのだろうか。だが、ミュージック・コンクレートの重要性の再認識を促す論文「ミュージック・コンクレートの存在論」で作曲家のミシェル・シオンの指摘するところによれば、これらの“生活の中の音”の例に関して、この記述は完璧に出鱈目なのである。「どのようなコンクレートの作品も、これらの音を使ったことはない」と彼は断言する。
正直、ミュージック・コンクレートがどういうものであるのか正確には分かっていなかったものの、この示唆と以降に続く解説に大いに納得させられる。
そしてそこから、現代音楽とロックはどのようにしてかかわり合うことができるのかということを論じていく─
ロックという文脈で語られる以上、未来などない。なんとなれば、ロックとはその生誕の瞬間に終わっていたのであるから、そもそも歴史的発展などないのだ。
すなわち、ロックに未来はないとしつつも、それは現代音楽を肥やしにしながらどこまでも突き進んでいくことを示唆している。だから、現代音楽の推移とともにロックも変化するのだろう、決して進化することなく。
それ故に現代音楽の重要性も一層高まるというわけで、著者は21世紀に残すアルバム10枚を挙げている。冒頭に挙げたPRIVAT 10とは違って、これは頭だけでとらえられた10枚であり、あまり面白いとはいえないかも─

ジョン・ケージ「ヴァリエイションズⅡ」
ジョージ・クラム「ブラック・エンジェルス」
フィリップ・ドゥロゴス「アグレッシオン」
リュック・フェラーリ「ブレスク・リアン・ナンバー1/ソシエテⅡ」
ペール・アンリ「ミーズ・アン・ミュジーク・デュ・コルチカラール」
マウリシオ・カゲール「エキゾチカ」
コンロン・ナンカロウ「スタディーズ・フォー・プレイヤー・ピアノ」
カールハインツ・シュトックハウゼン「Spiral für Blockflöte und Kurzwellen」
イアニス・クセナキス「ペルセポリス」
ラ・モンテ・ヤング「23 VIII 64 2:50:45-3:11 AM the volga delta」

そして、これら現代音楽の役割の一例を挙げる─
我々の中に、たかだかこの200年ほどの間に形成されたロマン主義的音楽観による正しい音楽の在り方が、意外と根強くすり込まれてしまっている(略)その在り方とは、すなわち、しわぶきひとつ聞こえないコンサート・ホールで、演奏家が超絶的な名人芸を披露し、その演奏によって楽譜から忠実に賦活された作曲家の理念が、聴衆にあまねく伝わりうるという、ほとんど幻想に近いものである。そこには、音楽の形成、伝達過程で起きうるはずの、あらゆる情報の偏差、不確定性、ノイズの混入といったものが完全に無視されている。実際はそんなことなど決してあり得ないのだが。
ちなみに、ここで、ある音楽が作られ、我々の耳に届くまでに、どれだけのプロセスを経るかを考えてみよう。おおざっぱに図式化すれば以下のようになるだろう。
 作曲家─楽譜─演奏家─音響─聴衆者
このプロセスの中で、どれほどの情報のロスがあるか、少し想像してみただけで、音楽家の理念が音楽を通して聴衆者に十全に伝わる、などという旧来の考え(というより意識にも上らぬ不文律なのだが)は、ほとんど絶望的であるように思えてくるのではなかろうか。
現代音楽を果たしてマイナー音楽と呼んでいいのかどうか疑問なところだが、それが実際に流れる場は明らかに少ない。しかし、それが音楽全体に果たす役割というのは、想像を絶するほどに大きいものなのだろう。


▷ 興味深い提示
二重音唱法に限らず、倍音が特徴となる唱法は、先ず、その倍音を発すること、およびそれを聴くことで、身体に直接的な快が得られる
反響効果が耳に与える快感は、あえて歴史を遡らなくとも、我々自身、日々体験していることである。
声をテーマにした記述が、本の中盤で展開されている。上記にあるのは、ホーミーなど二重音唱法が何故に世界各地で存在しうるのかとうことを紐解いているもの。
声と音楽との結びつきを深く追求しているその記述が、非常に面白く、しかも、声を武器に活動している、例えば、デヴィッド・ハイクス(David Hykes)などのアーティストのことを紹介してくれている。ハイクスを「技術的な面では、ハイクスは、恐らく世界で最も高度なテクニックを身に付けているだろう。」と称す。そして、それを聴くと実に興味深いもの。音楽の領域は何と広いことか─。

美術を評した次の文などにも共感する。
“平和と自由”のために、ハンマーで音をぶち壊すヨーコ。
このように、私には、今でも、ヨーコの身体性の過剰さが、その言葉や論理をはるかに乗り越えているように思える。そして、その瞬間に立ち会うとき、我々は決まって、名状不可能な、鳥肌のような快感を手に入れることになるのだ。
最も笑ってしまったのは、作詞講座“あなたもゲンスブールになれる”というコラム。ゲンスブールの歌詞を分析した上で、それらしい歌詞を簡易的に作ってしまおうという面白企画。文の語り口も、出来上がった簡易歌詞も面白すぎて、音楽に対する偏愛を感じとることができる。

そして、モンド・ミュージックなるものへの苦言として次のように語っている─ 
いったいある作品の“正しい解釈”というのがあり得るのか、という問題(略)誤読の可能性は、読解の可能性そのものに属するものであり、それを消去することは不可能だ。だが、少なくとも、ある作者の狙った意図というものを、その時代、その文化的条件に於いては、それがどういう意味を担っていたか理解しようとしつつ、同時にそれを超えてメタ的に面白がる、という二つの視点を持つ姿勢は、やはり必要なのではないだろうか。そのことを全ての“モンド・ミュージック”愛好家が実践しているとは、必ずしも思えない節があるのだが……。
音楽はこうあらねばならないとか、こう聴かねばならないという定義などがあるわけもない。自由に楽しめばいい。しかし、それを愛するというのであれば、もっと深く掘り下げて嗜好せよ、とまぁ厳しい暗示。

このほかにも、数多くの論文が並んでいる。あまりの量と質に辟易してしまうかもしれないが、それ故に得るものも多い。しかも、提示された音楽も楽しめるため、まさに一石二鳥。ただし、大里俊晴という音楽学者と真摯に向き合う覚悟が必要だ。





2016年2月1日月曜日

音楽のピクニック

「音楽のピクニック(著:小杉武久)」を読みました

音楽のピクニック 概要
著者の小杉武久(1938年3月24日生)は東京出身、東京芸術大学音楽学部楽理科を卒業。フルクサスに参加し、マース・カニングハム舞踏団とも共演。タージ・マハル旅行団を結成し、後にマース・カニングハム舞踏団の常任音楽家として活動する。
エレクトリックなども積極的に用いて、即興演奏を中心に、マルチメディア音楽の作曲/演奏家として活躍する。
「音のピクニック」は1970年から1990年までに、小杉武久が雑誌やライナーノーツに出稿した著作物、あるいはインタビュー記事などを集約しまとめ上げたもの。
自身の音楽活動の経験が述べられているともに、音楽に対する姿勢や考え方が明示されている。
1991年8月10日に『書肆風の薔薇』から発行されたもので、かなり時代が経っていが、序文にはナム・ジュン・パイクの言葉が寄せられ、中身においては、コーネリアス・カーデューとのインタビューや阿部薫との経験譚などが載っており、前衛音楽を嗜好する者にとっては興味が尽きないことだろう。

▷ 小杉武久の演奏
2008年の横浜トリエンナーレで小杉武久の演奏を体験する。











素材になるものをいくつか選び、それらを組み合わせて、サウンド・システム、つまり発振器やエフェクターを色々つなぎ合わせたシステムをつくりあげ、それを用いて演奏します。
その時は単独での演奏。本にあるとおりエフェクターをつなぎ合わせ、即興的に音を出し引きしていたような印象だった。

私が考えている即興演奏はインド音楽やジャズのような形式性をもったものと違って、かなり不定型なもので、普通の音組織から大分外れたところからアプローチしています。例えば、私のよく使うヴァイオリン、これでメロディを弾くとすると、その時、私はメロディを「音のオブジェ」として演奏するのです。つまり不規則性をシステムにした複合音として……。そうすることで、全く予期しなかった音を楽器で作り出すことが出来ます。音楽活動を始めたばかりの頃、私は数人の友人と一緒に非常に自由な即興演奏を行なっていました。その頃考えていた事は、音楽を自動的なつまりオートマティズムの手法で演奏することでした。ちょうど、ジャクソン・ポロックの「アクション・ペインティング」のように……。
静かに登場した小杉武久は、静かに椅子に座り、何かつまみを動かしてゆっくりと音を出し始め、ノイズとも単一音ともいえない持続的なサウンドを奏で、静かにその音を消していき、静かに演奏を終えて、ほとんど説明もないままに、恥ずかしそうに消えていった。
音楽の演奏が単に音を目的としたものから離れて、アクションそのものになってゆくということもあります。(略)
音中心の音楽ではなくて、行為自体が演奏なのです。ダンスではないにしても、アクションや演奏者の動きに興味がゆけば、音を聞くと同時に物の動き方も観賞出来るはずです。音だけではなくアクション中心でもない、音とアクションが統合されたパフォーマンスです。
ギターにひもをくくりつけて、ギターそのものを動かして音を出すという小杉武久の作品「テンダー・ミュージック」の説明などを読むと、自分が体験しものとはずいぶん趣向が違うと感じてしまう。ただ、いずれの“作品”も聴いただけではつまらないことは明白だ。


小杉武久にとって作曲とは即興演奏であり、即興演奏こそが作曲であったようだ。
協奏曲の「カデンツァ」の部分などのように、その独奏者に自立的な即興演奏の場が与えられている場合があったとしても、演奏家の名人芸的な技巧を売り物にする「曲芸」的なものになり、本来の音たちの持つ自発的な<動き>の場ではなくなった。音楽はそのようにして、演奏者の曲芸的なスポーツになったり、あるいは作曲の構築物=「凍れる音」をいかに正確に支えていくかという職人芸をかかえこむようになる。
(略)対照的に、ジャズとかインド音楽は、音を<通常に変容するもの>として捉え、即興演奏の形式に音楽の在り方をおいている。メロディ・ラインはよく動き、リズムはよく揺れ、音は前もって予定されることが出来ない自由な羽撃きを持つようだ。これは「凍れる音楽」とは対照的に「燃える音楽」とでもいったら良いだろう。
そもそも、音楽に対する考え方が根本的に違う。単に、音を聴いたり聴かせたりすることだけが音楽ではないと主張する。
どんな音楽を作ろうか聴かせようかということよりも、どういったやり方で音を構築させようかということに興味を持っているようだ。
かつて私の友人K氏がこんなことを提案したものだ、即ち<地球の音を聞くこと>。 
狩人の弓の「ビューン」がハープの「ポロン」になり、はてはヴァイオリンやピアノの音に変貌する。
そして、音を様々な角度から捉えて、聴覚だけが音を捉えたり生み出したりするものではないということを主張する。
今、音ではない周波数の非常に高い二つの<波>があるとする。たとえば、毎秒91万回と91万2千回で振動する波、これらは電磁波であり、それ自体決して音として聴覚にひびくことはない。ところで、この二つの波がある電子回路の中でミックされると両者の間に干渉が起こり、この場合、その差として2千ヘルツの新しい波を産み、これは可聴帯域の波であるから、そのまま電気的に増幅しスピーカーから取り出せば、空気を動かし、音としてわれわれの聴覚にキャッチされることになる。これは一般には<ヘテロダイン>といわれる現象だが、耳には聞こえない(沈黙の)波がそれぞれの干渉の結果、第三の波としての音を産むということが、知覚にとっては、現象の異化としての楽しみを期待させる。この現象をプロセス化してとらえることにより、たとえば音楽と名づけられる現象の装置ができ上がる。 
インド音楽の形而上学的な理念によれば、伝統的に、音楽(サンギータ)は全宇宙としてのエンバイラメントの中に遍在する超越的な波動であり、音楽家は一種のアンテナと同調回路とを持つ受信器であり、自我の音楽を表現するというよりも、むしろ超越的な波動をとらえる媒体としてある、と考えられている。
半ば五感で音を捉えて、それを組み合わせながら形にしていく、インターメディアなるものを提示する。
聾人は音に触れ、みつめ、それを聞く。
盲人は風景を聞き、嗅ぎ、それを見る。 
ヘテロダインの現象において、異なった高周波の、耳に聞こえない二つの波動が第三の波として音波を産むように、波動の干渉のかたちは多様である。光すら音にならないものだろか? 今、ゆっくりと光量を変える光をある受光素子がキャッチし、その情報をこのゆっくりした超低周波のうねりに作用させると、うねりは光のゆっくりした変化につれて次第にその速度を変えてゆく。陽のかげりがうねりの速度をゆるめ、日差しがうねりを波立てる。ここでは、その波乗り演奏はさらに変容する光の波の干渉を受け、知覚は音として立ち現れている光の波に気づく。この複合的な媒体=波の相互作用の中に知覚が在るとき、知覚は、現象のトータルな顔が音という形をまとって現れている、ということを知る。だから音は現象のひとつの装置なのである。 
「エンバイラメントは不可視的である」(マクルーハン)ということは、現象における知覚の持つパラドックスに由来している。見えるものは視えないのだ。だから見えるものは聴いて見る、触って見る、嗅いで見る。インターメディア的思考が有効なのは、ここにおいてである。不可視的であり不可聴的でもある現象の複合的な装置。波動を聴覚に与えるならば、同時に視覚にも与えること。
▷ 小杉武久を取り巻く音楽
自分はながらで読書をする癖が身についてしまっていて、ひどいときはテレビを見ながら本を読んでいる。まぁそういうときは大概どちらもよく頭に入ってこないのだが…
この本を読んでいるときも、昔録画したコンサート映像を流していた。バーンスタイン指揮するマーラー交響曲第5番第2楽章の映像が流れ出した頃に、本の方はというと、ちょうどフルクサスのイベントでジョージ・ブレクトが披露した「ドリップ・ミュージック」と題した作品の注釈あたりを彷徨っていた。
一枚のカードに文字で、「滴り音楽。単独または複数のパフォーマンス。水の滴りのための水源と、ひとつの容器が用意されていて、水がその容器に落ちる」と記されている。

魅力的なその表記にたまらず Youtube を探るべくスマホにも手が伸びる。まさにインターメディアか─…我ながら陳腐…


この作品を見つつ聴きつつ、さらにマーラーを聴きながら見る。すると、言い知れず混沌としたエクスタシーみたいなものを感じてしまう。
まだまだ日常の音を純粋に楽しみ喜びを感じ切れていない未熟な自分ではあるけれども、凍結されてしまった音楽だけに縛られている感覚から、多少介抱されたような喜びを感じた。とまぁ回りくどい表現にするまでもなく、純粋に互いの音のぶつかり合いが面白かっただけなのだが─。

小杉武久が刺激を受けたであろう音楽たちも当然ながら紹介されている。そこには、「影響を受けた」と簡単には書かれてはいないけれども、読んでいて他の箇所とは明らかに異なった面白さを感じるわけで、好きなんだなぁというニュアンスが伝わってくる。

鳥が石を通過する
─チャーリー・パーカー暗喩(メタモルフォーゼ)考
即興の音楽=ジャズなどは飛行する音楽である。それは、あらかじめ決められたレールや道路の上をきめられた速度でしか走りえない二次元空間の音楽ではなく、空中を飛翔する音楽である。空間は四方八方に広がり、だから次元がひとつ多いこの三次元に飛行する音楽の旅(プロセス)はより多様であるかもしれない。音楽家=インプロヴァイザーはだから「鳥」であり、時には気流に乗って気ままに流され、時には気流にさからい、雲=やわらかい石を通過する。色んな「鳥」が居て、色んな飛び方をする、色んな時代に、色んな国に。鳥の居ない国、鳥の居る国、鳥の飛べない場所、鳥の飛べる場所。飛ぶのをやめた鳥、石にぶつかって死んだ鳥。……鳥になった馬。……翼を持った機関車。……石を通過する鳥……
 そんな「鳥」たちの中で、チャーリー・パーカーはとりわけその素早さとしなやかな飛び方で目立った存在であった。「ビ・バップ」という飛び方のスタイルもそれまでの「低空飛行」と違って、その高度と飛行範囲をぐっと広げているところが、なんともいいのである。人々はその飛び方に魅惑され、他の「鳥」たちもその飛び方を真似ようとした。
小杉武久が奏でる音楽は、決してチャーリー・パーカーとは相容れないものだとは思うが、バードが飛び回った即興音楽が半ば小杉武久を形づくっているのだと想像すると、なかなか面白いものがある。

小杉武久とは音楽性や好みが必ずしも合わないようなミュージシャンたちも登場してくる。明らかに水と油といった感じがするけれども、その反発し合う姿も、傍目から見ると非常に面白い、申し訳ないけど─。
特にコーネリアス・カーデューとの対話が面白くて仕方がなかった。
カーデュー 社会革命なしに音楽革命はできません。まず社会革命がおこってから、文化や政治のような上部構造がその結果変革される、ということです。しかし、最初は経済領域であり、そこをめざして工作する必要がある。一方、音楽の革命については、われわれが音楽において革命的とみなしてきたものはいつも、ただ前にあったものとちがうだけで、どんな方向とか、どのようにちがうとかということは問題にされなかった。われわれはいつも形式面でのちがいを開拓しようとし、聴衆との関係におけるちがいは問題にしなかった。だから、19世紀には19世紀の音楽をたのしむ特定の聴衆がいたのとちょうどおなじように、前衛音楽には前衛音楽をたのしむ特定の聴衆がいる──階級的状況がかぎられていることは以前と同じです。しかし音楽の革命は──われわれにはそれがどのようにおこるかはわからないが──、しかし今思うには、ケージがやったと言っているようなたぐいの革命はたいへん小さく、重要でない革命であり、事実、19世紀音楽の鑑賞に有効なことがケージの音楽の鑑賞にも有効なのです。わずかな変化はある。社会組織におこった程度のね。たとえば19世紀には、みんながロマンチックな恋愛とか、そんなことだった。今ケージの音楽では、すべてがテクノロジーの新しさとか、まったくでたらめな現象であるような環境なのです。こんなことは流行で──つまりこれが社会の達した段階なのです。19世紀にはロマンチックな恋愛、今はこれ、ところがそれはおなじ社会が発展しているだけなのです。われわれは現在望む変化は、その社会の一部ではない。おなじ方向に続けるのではなく、社会主義社会へむかって方向を変えることです。 
小杉 日本には<音の楽しみ>ということがあります。音楽ということばは、音のよろこびという意味で、だからバリ島の音楽や、インドの音楽に耳をかたむけるのは、その楽しみであり……。
カーデュー 外国へいって、遠いところの現象として見るのは、楽しみかもしれない。しかし、純粋な音のよろこびなどというものはないと思います。
70年代まさに東西冷戦真っ只中といった印象がする。といってもカーデューはイギリス出身なのに、何でこんなにも左よりなんだろうと思ってしまう。毛沢東を引き合いに出して語っていたからなー。

そして、日本のカリスマ阿部薫との共演した日の記述もある。
アベ・カオルとの記憶 
─1971年の夏─そしてその時も私は「ひとり」であった。阿部はひとりで遊んでいたし、私もその傍らでひとりでやっていた。それは音と音で合奏し合うという定型をはなれていた。そういったフリー・ミュージックであった。
なんだか情景が浮かぶような浮かばないような…まさに情熱と冷静の間か─。

そして最後は日本の作曲家、高橋悠治との対話で締めくくられる。
そこにはフルクサスから1990年現在に至るまでの活動姿勢が刻々と語られているわけで、これを読めば、まさに小杉武久の音楽に対する姿勢がハッキリと掴み取ることができるはずだ。
作品という場合、やっぱりそれは音楽の段階なんだよ。前からぼくはそうなんだけど、アンチ・ミュージックという立場で活動した。つまり反芸術的な立場、芸術自体に対する疑問と言うべきかな。だからアノニマスな音がどうこうということ以上に、音楽ということ自体すらもそこに持ってゆきたいと思うことはある。(略)音楽すら無目的な、アノニムな方へ持っていきたいというようなところがあるんだ。それが結局パフォーマンス、アクションを含めたようなものになっていく。だけど、今度はそれが芸術のモデルになり、そこからまた逃れたいという自分の意識が働いてくる。大本のところで一つの反芸術的な方法を求めるんだね。 
フルクサスはぼくにとって60年代の状況なんだよ。ネオ・ダダの動きとかもあったけど、それがやっぱりアートの制度になったような気がする。もちろんフルクサスのメンバーにはそういうことを思っていない人もいるし、それは最初から承知で、ずっとその人なりの方法を持って展開している人もいるけど、フルクサスは特にいまは美術館に入ったり売れたりしているわけよね。それはもう、フルクサスじゃないかもしれない。本当はそういった状況、事態を覆していくことがフルクサスなんだ。過去のフルクサスじゃなくて、いまどういうふうにフルクサスを展開するかということを、フルクサスがやるべきなんだ。ともかく、ぼくはフルクサス・イヴェントの作品をいくつか作ったし、それはさっきから話しているアノニマスなものをめざすときの一種の原点になってるわけだけれどね。 
そんな風にアートの制度に組み込まれるようなことがめちゃくちゃ起こってきたのがちょうど70年代、それにヒッピイズムとかもあった、そのときに仲間の偶然的なつながりが出来て、タージ・マハル旅行団という集団即興演奏のグループが出来たんだ。そのときははっきり意識してやってはいなかったんだけど、それは、ぼくにとって、フルクサスが制度化されたことへの反動あるいは反発かもしれない。やっぱりアートに対する反発なんだ。タージ・マハル旅行団は「遊び」だからね、「遊び」なんだけれど、巻き込まれていくんだ。たとえば「ピクニック・バンド」っていう名前をつけたりする。すでにもう名前をつけること自体が自由な遊戯性からは外れる事になっていく。構成メンバーはみんな無意識にそういうことを知っていたと思うんだけど。とにかく、70年から76年まで約7年間やってて、ものすごくおもしろかったんだけどね。遊戯性ということとアノニマスということとがつながってきたし、さっき言った、音楽という制度に対する反発とか、それから逃れるということとか……。でもぼくはまだそういうモデル、音楽というモデルの中で音楽をやっているわけだよね。そんな簡単にいかないんだな、これが。


2016年1月27日水曜日

泰平ヨンの未来学会議[改訂版]

「泰平ヨンの未来学会議[改訂版](著:スタニスワフ・レム、訳:深見 弾/大野典宏)」を読みました

 泰平ヨンの未来学会議 概要
ポーランドの作家、スタスワフ・レム(1921-2006)が1971年に発表。スタスワフ・レムは2度映画化された「ソラリス」など、SF作品で有名である。
泰平ヨンが登場するシリーズは「未来学会議」のほかに「航星日記」「回想記」「現場検証」などがある。「未来学会議」は「コングレス未来学会議」として映画化された。

▢ 泰平ヨンの未来学会議 あらすじ
第八回世界未来学会議がコスタリカで開かれた。そこでは人口の激増とその阻止がおもに討議されることになっている。泰平ヨンはそこに参加すべく、会場のコスタリカ・ヒルトンに宿泊する。会議が始まるとテロ事件が発生、軍がそれを鎮圧させるために放った<誘愛弾>が誤ってヒルトンで爆発してしまう。それを吸ってしまったヨンたちは、いつの間にか未来のユートピアと誘われて行く。そこで目にしたのは精神化文明(セラピライゼーション)の時代と呼ばれる社会であった─。

▷「コングレス未来学会議」と「泰平ヨンの未来学会議」
「泰平ヨンの未来学会議」を知ったのは、アンリ・フォアマン監督の映画「コングレス未来学会議」が公開されるとの情報を得てからだった。アンリ・フォアマンの名もスタニスワフ・レムの名も知っていたので、映画にも書籍にも興味を持った。
コンセプトは一緒でもその内容はかなり違う。原作は男性が主役で未来学会議から話が始まる。一方、映画は女優が主役で会議会場に赴くまでの前置きがかなり多い。
映画から先に見たが、ここまで話が違うとは思っていなくて、こうして今さらながらに原作を読み切り、再度、映画を見返してみたいと思ってるところだ。
原作から先に読んでいれば、このめくるめく世界観をどのように表現されるかなど想像つかなかっただろう。結論からいえば、映画ではアニメーションと実写を組み合わせることでそれを見事に表現しきっていた。アニメーションを用いることで、自由自在にユートピアを描いている。その創造力たるや、決して原作にひけを取らない。人によっては、この二つは似て非なるものというかもしれないが、個人的には楽しさが2倍になっていると思っている。原作と映画化の関係で、単に焼き写しになってしまうことほど、悲惨でつまらないものはない。

▷ 未来を描いたSF
1971年時点の近未来から物語は始まっている。恐らく2000年代前半という設定だろう。泰平ヨンはホテルの水道水の中に何かが含まれていることを感じる。
ラブタミン(慈愛覚醒剤)系の、脳に抽象的な歓喜と落ち着きを呼び起こす幻覚剤の新薬…(略)…快楽剤、多幸剤、陶酔剤、至福剤、感情移入剤、恍惚剤、鷹揚剤など、それに類したおびただしいドラッグだ!それと同時に、水酸基系の薬をアミノ酸で置き換えれば、それから、憤怒剤、反目離反剤、加虐性歓喜剤、鞭推剤、虐待亢進剤、挫折惹起剤、落花狼藉剤や、それ以外にもさらに多くの鞭殺亢進剤系の中の狂暴性を増幅する興奮剤が合成できるのだ(これらの薬品を服用すると、周囲にあるものを、生命があろうとなかろうと関係なく、鞭でひっぱたいたり愚弄するという傾向があるのだ──その場合いちばん強力な効果があるのは、埋葬剤と梵殺剤のはずだった)。
多くの不思議な名前の薬こそが物語のキーとなってくる。一風変わった名称がユーモアを生み出し、同時に非現実的な想像を刺激する。
<誘愛弾>が落下しはじめるに及んで、法の番人たちは互いに我先に駆け寄って、そばにいる者と相手の見境もなく抱き合って愛撫しはじめたのだ。
幻覚剤はすでに世の中で頻繁に使用されていた。傷つけるよりもよっぽどこっちの方がいいように思うのだが、幻覚が強すぎるとその弊害も甚だしい。
テロを抑え込むためにまかれた幻覚剤のせいで、泰平ヨンは幻覚の呪縛にはまってしまう。頻繁に幻覚が繰り返していくうちに、現実世界と幻覚とが判別できなくなってくる。
気が付くと脳だけがあらゆる肉体に移植され続けていた。女性になり、テロリストになり、知り合いの教授になったかと思うと、自分の肉体には別の誰かの脳が移植されていたり…再び脳と体が一体となっている感覚に戻ると、今度は冷凍保存されようとしていた。40年から70年後の解凍を見越した、いわゆる冬眠ということなのだろう。そして冷凍され無の状態へと落ちて行く。
解凍され目覚めると、そこは2039年、精神化学(サイコケミストリー)が中心の精神化文明(セラピライゼーション)と呼ばれる時代であった。
ようやく百科事典の入手方法がわかった。
学術陶象店で購入したのだ。今では本は読むものではなく食べるのだ。紙ではなく、砂糖をまぶした情報物質から作るからだ。
陶象店はひょっとして図書店から由来しているのではないのか?
周りの状況は一変していて、紛争など争いごとも全くなくなっていた。それというのも<誘愛弾>や幻覚剤など、薬が発達した恩恵のためで、薬によって精神を自在にコントロールしていたのだ。
麻酔剤や初期の幻覚剤のあとに、強力な選択効果がある精神焦点剤と呼ばれる薬が表れた瞬間から、文明の進歩はそちらの方向へ進まざるを得なかったのだ。だが、本当の意味での大変革が起こったのは、ようやくマスコン──つまり点覚剤が合成された25年前のことだ。麻酔剤は人間を世界から遮断するのではなく、それと関係を変えるにすぎないし、幻覚剤は世界全体を混濁させ覆うだけのことだ。ところがマスコンは世界を偽装するのだ!
つまり、感情を完全にコントロールしているのではなく、脳をだますことによって、あたかも平穏な心を保ち続けているような錯覚を作り出しているだけだったのだ。
しかるべく合成されたマスコンが脳に入ると、外界のあらゆる対象が虚構のイメージで覆われてしまう。それがあまりにも真に迫っているから、マスコンの影響下にある者は、現実に知覚が働いているのか、それとも虚妄状態にいるのかわからなくなってしまう。
地球上のほとんどの人は、虚妄状態ことに気付いていない。虚妄を現実と捉え、それを謳歌している。しかし、本当の世界を知る者も存在する。すべての人類が本当の地球を知らないのであれば、元も子もないからだ。真の世界を知る者は自らを現実在者と言っていた。泰平ヨンもアンチパラダイジンなる薬品をかぐことにより、真の世界を目の当たりにする。そこはすべてが嘘の塊だったのだ。
今年は2098年だ。合法的に登録されている人口だけでも690億人、他に登録されていない非合法な住民が260億はいる。年間の平均温度は4℃に落ち込んでいる。ここ15年か20年で氷河期がやってくるだろう。その進行を阻止することは不可能だし、遅らせることもできな──できるのは隠すことだけだ
決して明るい未来ではないし、しかも今現在の世界情勢を眺めると、まるっきり絵空事のようにも思えない。薬漬けとか、幻覚の弊害とか、明らかにこの現実世界を意識して描いている。未来への警鐘とはいわないまでも、このまま行くと異常な世界が待っているという意識を植えつけてくれる。
変な薬、変なロボット、笑えるけど未来だけど楽しい未来じゃない。しかし、ふと思う。もうすぐ滅亡という事実をつきつけられたならば、人類はどのような反応を示すのだろうと。自暴自棄になる人は少ないないだろう。だったら滅亡する事実を知らないままに滅亡した方がよっぽど幸せではなかろうか。何事も永遠なものはない、今のところ─。人類がその永遠を手にすることができるのかどうかは分からないけれども、幸せに滅んで行く方策ということを考えることこそが現実的かなと思わないでもない。
虚妄を現実と思いこんで滅んでいくことを肯定したわけではないけれども、笑いながら滅んでいくのも悪くないなと、この本を読んで思ってしまった。





2016年1月16日土曜日

國語元年

「國語元年(井上ひさし著)」を読みました

▢「國語元年」概要
Kindle版「國語元年」には、国語事件殺人辞典、花子さん、國語元年、3つの戯曲が収められている。
国語事件殺人辞典は1982年の作品で、現代を舞台に国語辞典の編纂を志す無名の学者のお話。不思議な題名が物語っているとおり、不思議な日本語が入り乱れ、少し読みづらい部分もあるけれども、普通ではないその言葉にはまると、非常に面白く感じる。
花子さんは1978年の作品で、現代を舞台に選挙活動をする男のお話。政治というものを痛烈に風刺している。ここでも複雑怪奇な言葉遊び的な表現が多用されている。
國語元年は1986年の作品で、近代(主に明治期)を舞台に全国共通語をつくり上げようとする役人とそれを取り巻く人々のお話。あらゆる方言が飛び交い、その方言の違いを認識していかなければ咀嚼しきれない。じっくりと、イントネーションの違いや意味の齟齬など吟味しながら読んでいくと、作品の中の喜怒哀楽を十二分に堪能できる。

ドラマ「國語元年」の記憶
子供のころNHKで言葉を題材にしたドラマを見たような…そんな曖昧な記憶がずっとつきまとっていたのだが、つい最近それが井上ひさしの「國語元年」だということが判明して、遠い漠然とした記憶を確固としたものにすべくその戯曲を読んでみた。
面白いドラマだったと記憶していたのだが、いざ文章と対峙してみると、これがなかなか手強いものだった。というのも、方言を文章にすると非常に分かりづらいからだ。自分の出身地東北の訛りであれば、多少なりとも容易にその表現やニュアンスも理解できるのだが、西へ南へ遠のくごとに理解しがたくなってくるし、ましてやイントネーションなどは文章だけで判断することなど不可能だった。この作品は読むよりも見ることが本来の姿なのかもしれない。
当時、NHKで放映されたドラマの配役を確認すると、川谷拓三、石田えり、ちあきなおみなどのビッグネームが─。内容もさることながら、役者の演技も素晴らしく、それ故に子供心に残っていたのだと再確認した。

▷ 変わりゆくことば
人びとにはマッサージが必要なのですよ。乗客のみなさんはどなたも会社でことば使いに神経をすりへらし、くたくたになって家路についておいでです。上役に言い過ぎたりしてはいけない、得意先を不愉快にしてはいけない、部下に対しては舐められぬよう、しかし威張っていると思われるように口をきかなくてはいけない。もうピリピリしながらことばを使って、どうやらこうやら一日を終えた。失言ひつとでクビの飛ぶ世の中、その世の中を今日も無事に切り抜けた。みなさんホッとしていらっしゃる。そこをおもしろおかしくさらにマッサージしてさしあげる。これが赤字国鉄のせめてものサービスである、そう信じてやっております。(国語事件殺人辞典より)
新たな国語辞典を編纂するという志を持って旅を続ける国語学者・花見万太郎が、旅先の駅で列車を待っているとなんともいいかげんな構内アナウンスが流れてきた。クレームを言う花見に対して駅長が上のように言い返す。そしてまた駅長が続ける─
ことばを発明したのは人間でしょうが。(略)
だとすれば人間がことばを使いこなす、それが本来でしょうが。
これに対し花見は─
(略)今や事情が逆転して、ことばが人間をこき使い、主人顔をしている。あなたはそうおっしゃりたいのだな。
そして駅長が再び答える─
(大きく頷き)ことばをおもしろおかしく使いこなして、ことばのやつに誰が主人か思い知らせてやらねば、と思っております。
自分こそが正しきことばを理解する者と思いこんでいた花見は、旅先で出会う自分が知らない“ことば”に感化され、ついには自ら持つことばが狂いはじめる。
しいぞ、おかしい! 配列がことばの狂っている! はぐちぐだ、ことばの形態的組立構造が……。だ、この症状は、言語不当配列症、噂に聞く。(頬を叩いて)アイウケコ(自分で自分に驚く。そこで気を鎮めて)いろはにほへとちりぬるOPQRSTUVW……(また仰天して)なに?! こまった。どうすればいい。この言語不当配列症は、ことばの病なのかでも難病中の難病として知られている、治療法はまだ発見されていない(トすらすらと言ってしまう)。あれ? 治った。(思わずほっとして)よかった。一時は思ったどうなることかと。(また仰天して)ええッ?
物語はこれ以降、この言語不当配列症やら句読点がめちゃめちゃになるベンケイ病とか、あるいは動詞とか形容詞に活用を持たせず「マス」「デス」「マセ」「コトガデキマスル」「マセン」「デセン」をつけるだけという規則の簡易日本語なるものが飛び交って、正直、読みづらい。しかし、文法がめちゃくちゃであるこの文章でも不思議と理解できて、しっかりと伝わってくるということが実に面白い。
言語や概念というものは確かに人間が生み出しものかもしれないけれども、ことばが使用され続けているうちにそれはどこまでも変化し続けていて、本当に制御が利かないものになっているのかもしれない。
ことばというものは、覚えるとか学ぶものなどではなく、伝達するため・思考するために、あくまでも使用するものだと今さらながら再認識してしまう。

▷ 國語元年の苦悩
全国統一話し言葉、この難題を追求した役人・南郷清之輔の物語として「國語元年」は書かれているけれども、内容は言葉の歴史を紐解くとかというものではなく、あくまでも言葉の面白さと難しさを表現しようとしているものだ。
長州弁、鹿児島弁、江戸山ノ手言葉、江戸下町方言、大阪河内弁、英語、南部遠野弁、名古屋弁、羽州米沢弁、京言葉、会津弁、それらの方言が飛び交う中、南郷清之輔はどうにかして日本全国六十余州すべての人に通じる言葉を作り出そうと試行錯誤を重ねていく。複雑怪奇な言葉、ひとつの事柄がこんなにも違う表現で…、それは一つにした方がいいに決まってる、容易に伝達も可能になることだろう、しかし、それは同時にあらゆるものを削いでいくことであり、そこに嘆き・哀愁・怒り・争い・諦め・エゴなどなど、様々な感情が生まれ、それを目の当たりにすると、言葉をコントロールすることがいかに難しいのかがよく分かる。
万人の使用する言葉を、個人の力で改革せんとするはもともと不可能事にて候わずや。……(略)……万人のものは万人の力を集めて改革するが最良の上策にて候わずや。そのためには一人一人が、己が言葉の質をいささかでも高めて行く他、手段は一切あるまじと思い居り候。己が言葉の質をいささかでも高めた他る日本人が千人寄り、万人集えば、やがてそこに理想の全国統一話し言葉が自然に誕生するは理の当然に御座候。(國語元年より)
日本語を作った人は誰なのか?そんな問いには答えがないようなもの。敢えて言うなら、こうして言葉を使っているすべての人間が言葉をつくりあげていると言えるだろう。これからも当然、変化していくことだろうし、今現在もっともらしく学んで身につけている文法なども、将来においては間違ったものになっている可能性だってある。ここに記している文章も、何十年後、何百年後、何千年何万年何億年後、正確に伝わっていくかどうかも分からない。でも、過去の言葉は現代においても残っていることを考えると、恐れることなく言葉を使っていけばいいのかもしれない。
ことばなんてものはな、べつに美しくなくたっていいんだ。正しく行儀よく喋らなくたっていいんだ。ただ各人が、それぞれの手持ちのことばで、ものごとをしどろもどろになりながらも必死になって、一所懸命に考えて、その結果がイエスと出たら正直にイエスと答える、ノーと出たら誰に遠慮もせずノーといえばいい。(国語事件殺人事典より)