2015年9月29日火曜日

病牀六尺

「病牀六尺(著:正岡子規)」を読みました

◇「病牀六尺」とは
明治35年(1902年)5月5日から9月17日まで新聞「日本」に連載された、正岡子規による随筆。正岡の命日が9月19日であるから、本当に死の直前まで執筆していたことがよく分かる。
内容は、歌や句についてはもちろんのこと、画論や時評についても数多く述べられている。故に、正岡得意の俳句や和歌に興味がなくとも、明治という時代など歴史的背景に興味がある人ならば、それなりに楽しむことができると思う。
また、歌についても率直な正岡自身の意見とともに懇切丁寧な解説が成されているので、これが俳句などに興味を持つきっかけになるかもしれない。


▷「病牀六尺」の言葉 <俳句>
自分は、俳句とか和歌には全く興味がない。だから、その短い文章の中に込められている思いなど、容易につかみ取ることができない。枕詞など含まれている場合は、理解に苦しんでしまう。
そんな自分でも、正岡子規の俳句は分かりやすくて、素直に理解できた。
鳥の子の飛ぶとき親はなかりけり
─親を亡くした若者に正岡が贈った言葉
墨汁のかわく芭蕉の巻葉かな
芍薬は散りて硯の埃かな
五月雨や善き硯石借り得たり
─高級な硯を手に入れたものの、使えない気持ちを吐露したもの
鹿を逐ふ夏野の夢路草茂る
─新聞紙面を総選挙が賑わせているさまを表している
目的物を写すのには、自分の経験をそのまま客観的に写さなければならぬ
─正岡子規にとって俳句はまさしく客観描写のようなもの。それ故に分かりやすくて頭の中に入ってきやすい。ちなみに、正岡は植物などの静物画を描写することが好きであったようだ。
余の命の次において居る草花の画であった
─多くの画論を残しているだけあって、正岡子規の“草花の画”もなかなか見事なものである。


▷「病牀六尺」の言葉 <身近な物事>
明治という時代が始まってから147年。それが長いか短いか─。正岡子規という存在は確かに遠い。しかしながら、113年前に書かれたその文章を読むと、それが身近に感じてしまうから不思議なものだ。
丸の内の楠公の像
─病床が続き近頃の東京の様子を見ることができないことを嘆き、見たいものとして、現在皇居にある楠木正成の像を挙げている。自分はそこをしばしば走り抜けているので、一瞬、子規との時代を共有した気分になった。参考までにいうと、楠木正成像は明治23年(1891年)に献納されたという。
水難救済会はその会の目的が日常的なものであって今日の赤十字の如く戦時にのみ働くといふやうなものとは性質を異にしてをるにかかはらずかへって微々として振はんのは県官の誘導も赤十字社の如くあまねく及ばないのであるか、あるいは勲章めきた徽章のないためであるか、何にしても惜しむべき事であると思ふ。
─当時、日本には2、30ヵ所の救難所が設けられていた。それを正岡子規は少なすぎる、もっと増やして整備すべきだと述べたもの。水難救済会、日本赤十字社ともに現在も存在する組織。
明治維新の改革を成就したものは二十歳前後の田舎の青年であって政府の老人ではなかった。(略)何事によらず革命または改良といふ事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事であって、従来世の中に立って居った所の老人が途中で説を飜したために革命または改良が行はれたといふ事は殆どその例がない。
─もっとのだ。
ひとつの写真は右目で見たやうに写し、他の写真は同じ位置に居って同じ場所を左の眼で見たやうに写してあるのである。それを眼鏡にかけて見ると、二つの写真が一つに見えて、しかもすべての物が平面的でなく、立体的に見える。
─その時代、すでに3Dは存在していたわけだ。
教育は女子に必要である。
─明治維新後、ようやく女性の教育が叫ばれるようになった。正岡子規もそれを強く主張している。まるで現代日本で女性の社会進出が叫ばれているように…。
日本酒がこの後西洋に沢山輸入されるやうになるかどうかは一疑問である。(略)日本の名が世界に広まると共に、日本の正宗の瓶詰めが巴里の食卓の上に並べられる日が来ぬとも限らぬ。
─いまの日本酒ブームを予見しているかのようだ。

当然、いまの文化風俗と違った事柄も記されているのだが、このように現代とそれほど変わらない記述を目にすると、人の世などまだまだ一瞬のことでしかないと感じてしまう。


▷「病牀六尺」の言葉 <身近な物事>
本の題名のごとく、病気との激しい闘いが数多く綴られている。確かに、読んでいると辛くなってくるのだが、そのうちに床に伏していることさえも楽しんでやろうという気持ちがこちらによく伝わってくるためなのか、不謹慎とは思いつつも、滑稽な印象さえもってしまう。
悟りといふ事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
体調が優れない日の記述。本は日めくりのように綴られているため、記述から体調の良し悪しが容易に察することができる。
「如何にして日を暮らすべき」「誰かこの苦を救ふてくれる者はあるまいか」 
この問いに正岡子規自身の答えは、よき看護人ということになっている。そして、病気で苦しんでいる自分を、客観的にいち病人と捉えながら、看護についての考察がたびたび成されていることも非常に興味深かった。
直接に病人の苦楽に関係する問題は家庭の問題である、介抱の問題である。(略)看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。(略)傍らの者が上手に看護してくれさへすれば、即ち病人の気を迎へて巧みに慰めてくれさへすれば、病苦などは殆ど忘れてしまふのである。
看護、介護というものは、難しいものだとつくづく実感する。
病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。
正岡子規が半ば悟ったことなのかもしれない。
老母に新聞読みてもらふて聞く。振仮名をたよりにつまづきながら他愛もなき講談の筆記抔を読まるるを、我は心を静めて聞きみ聞かずみうとうととなる時は一日中の最も楽しき時なり。 
ここだけ読むと、微笑ましい日常風景のように思ってしまうかもしれないが、これは苦痛を和らげるためにのんだ麻酔剤が徐々に徐々に効いている状況を記しているものなのだ。


◇ しめくくり
命を賭した127日の記録。その中には膨大な情報量が詰め込まれている。
最後に、新聞「日本」に連載していた「病牀六尺」が100回目を迎えた項の冒頭を引用して、締めくくりとしたい。
○「病牀六尺」が百に満ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の月日は極めて短いものに相違ないが、それが余にとっては十年も過ぎたやうな感じがするのである。

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